池内蔵太
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池 内蔵太(いけ くらた、天保12年(1841年) - 慶応2年5月2日(1866年6月14日))は、幕末期の土佐藩の郷士。諱は定勝。別名に細川左馬之助。細井徳太郎。
土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄の息子として生まれた。1861年、江戸に出て安井息軒に師事し、様々な藩の志士と交流した。武市半平太と共に土佐勤王党の結成に尽力する。1863年、山内容堂の命令を受けて大坂・江戸の視察を命じられた。しかし容堂があくまで佐幕的な態度を貫いていたため、尊皇攘夷に好意を抱いていた内蔵太はこれを契機に土佐藩から脱藩して長州藩に逃げ込み、長州の尊皇攘夷運動に参加することにしたのである。そして長州軍の遊撃隊参謀となり、1863年5月10日のアメリカ船砲撃を指揮した。その後、天誅組の反乱に参加して天誅組が壊滅すると京都に潜伏し、1864年に長州藩が軍を率いて禁門の変を起こすと、長州軍の忠勇隊を指揮するなどして活躍している。しかしどうも、内蔵太には尊皇攘夷に傾倒していたのは確かだが、一元化した動きがなく、あちらこちらにと様々な行動を展開しているのである。
1865年、坂本竜馬が亀山社中を結成すると、内蔵太はそれに入社して竜馬と共に海軍創設に尽力する。しかし1866年、長崎から薩摩藩へ小型帆船・ワイルウェフ号を回航する途中で台風に遭遇し、内蔵太はワイルウェフ号と共に運命を共にすることとなった。享年26。
あまりに若すぎる死であり、竜馬は自分の後継者として期待していた内蔵太の死去を聞いたときに、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだといわれている。