浄福寺城
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浄福寺城遠景 | |
通称 |
新城、案下城、松竹城、千手山城 |
城郭構造 |
連郭式山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
大石信重か |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
土塁、堀 |
位置 |
浄福寺城(じょうふくじじょう)は現在の東京都八王子市下恩方町にあった山城である。
標高360m(比高約150m)の山の尾根上に曲輪、空堀や土塁のなど遺構が残り、中世山城である。別名として新城(にいじょう)、案下城(あんげじょう)、松竹城(まつたけじょう)、千手山城(せんじゅさんじょう)など様々な別称で呼ばれていた。1384年(至徳元年)大石信重によって築城されたと言い伝えられる。一方、『新編武蔵風土記稿』によれば、「大石源左衛門尉入道道俊と云もの当所に居城を構へし」(道俊は大石定久といわれる)との記述もある。城の南側、陣馬街道に沿って、大石氏によって開基された浄福寺がある。この寺は、当時武将が待機する居館との説もある。一帯は八王子市の史跡となっており、八王子市教育委員会の説明板によれば、大石氏は系図(山木伊藤家伝)によれば木曽義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが、1356年(延文元年)入間・多摩に十三郷を得て多摩に移住し、秋多町(現・あきる野市)の二宮から浄福寺城,高月城(長禄二年),滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれ、大石氏の経緯を知る上でも貴重な城跡であるという。後北条氏の時代になると、八王子城の出城として使用されたとされる。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに浄福寺城も落城、廃城となった。