浦上宗景
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浦上宗景(うらがみむねかげ 生没年未詳)は備前の戦国大名。通称与次郎、のち遠江守。浦上村宗の次男で、浦上政宗の弟。子に浦上成宗・浦上宗辰がいるとされる。
[編集] 経歴
享禄4年(1531年)、父・村宗の摂津天王寺での戦死後、兄・政宗が幼少にして家督を相続していたが、宗景は天文末年の尼子晴久による備前侵攻に際して国内の国衆を糾合。尼子氏に与同した兄との抗争などを通じて一定の支配領域形成を成し遂げた。
その後旧播磨守護家の赤松義祐を奉じて美作・播磨・備中へ勢力を拡大するなど近隣諸国の支配をも志向し、その勢威を諸国に知らしめた。しかし、これは同時に家臣である宇喜多直家の浦上家中における勢力も増大することになったと言われている。また、兄・政宗の生前は備前国内にもその支配が及んでおり、独立した権力を打ち立てることに成功するのは永禄7年(1564年)正月の赤松政秀による政宗謀殺以後の事であった。
天正元年(1573年)12月、織田信長から備前・播磨・美作3カ国の支配を認められるが、その専政に反対する直家と対立し、翌2年(1574年)から直家とこれに加勢する毛利氏と争うが、重臣の明石行雄等による離反に遭い翌3年(1575年)8月には天神山城から播磨へ退いた。
以後、宗景は播磨の大名衆と共に上洛し信長に拝謁、後には幸島(現岡山市水門町か)に籠めた浦上氏旧臣を蜂起させるなどしたが備前への復帰は果たせず、晩年は黒田長政の誘いで筑前に下向、出家し、同地において八十余歳で病死したとされる。備前に土着した子孫との伝承を伝える家も知られるが詳細は不明である。