清岡道之助
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清岡道之助(きよおか みちのすけ、天保4年10月20日(1833年12月1日) - 元治元年9月5日(1864年10月5日))は、幕末の武将。土佐国の人。名を成章、後に旭梅軒と号す。父は清岡春勝。坂本龍馬、武市瑞山に次いで幕末の土佐を代表する人物の一人であり、すぐれた兵法家として知られる。
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[編集] 生い立ち
安芸郡田野村で、郷士・清岡春勝の長男として生まれる。 幼い頃から、学問に励んだといわれ、儒学者岡本寧浦に師事した。その利発ぶりは、周囲も驚くほどであったという。後に江戸遊学の際は斉藤一斉から陽明学を学んだほか、兵学・兵法にも目覚める。やがて坂本竜馬に共鳴しこれに従うようになるが、文久年間に入ると勤皇思想にも影響を受け、藩命で大坂に赴任したことを契機に勤皇志士として活動を開始した。後に起こる土佐勤皇党の獄によって、武市瑞山以下勤皇志士の解放を求める動きにも安芸郡頭領として加担した。
[編集] 野根山の戦い
こうした一連の勤皇弾圧に対し、憤懣を募らせた道之助は、次第に苛烈な思想に傾倒してゆくようになり、やがては単独で強行的手段を選択。ついに元治元年(1864年)7月、配下・門弟23名を従えて岩佐番所を本陣として挙兵する。この武装決起に対して土佐藩も引かず、大監察・小笠原唯八率いる藩兵を派遣、野根山を主戦場とし、これを鎮圧する動きに出た。道之助は徹底抗戦を試みるも劣勢となり、やがて敗走を決意。隣国阿波の地へ落ち延びた。
[編集] 野根山二十三士殉節
敗走後、阿波藩兵に身柄を拘束された道之助は、土佐へ再び護送される。その際、野根山道を越えたとされている。同年9月3日、田野郡の奉行所に引き渡された道之助は、一切の取り調べもなされぬまま2日後の9月5日、奈半利河原で斬首される。その知らせを聞いた龍馬は、諌めを聞かず命を落とした道之助の短慮を責め、大いに悲しんだという。
現在、奈半利川の河畔には道之助以下同志らを悼む石碑が建てられている。
ちなみに、道之助に従い副将として活躍した清岡治之助(正道)は、同族にあたるほか、道之助の子の清岡邦之助は生き延びて、維新後、父の遺志を継ぎ学問に打ち込み慶応義塾に入る。後年、創設者福沢諭吉の3女と結婚し中央財界で活躍、父の名に恥じぬ人物に成長している。