渋沢成一郎
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渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう、1838年 - 1912年)は、江戸時代の幕臣で、明治時代の実業家。渋沢栄一の従兄に当たる。渋沢喜作ともいう。
1864年、渋沢栄一と共に一橋家の用人平岡円四郎に認められ、徳川慶喜に仕える。1867年、慶喜が将軍になると奥右筆に任じられた。1868年、戊辰戦争が起こると、成一郎は徹底抗戦を主張し、自分と意思を同じくする幕臣をかき集めて彰義隊を編成し、その首領となる。ところが彰義隊で内部対立が起こり、成一郎は副首領の天野八郎と対立して彰義隊を脱退する。
その後は振武隊を編成してなおも徹底抗戦を主張し、新政府軍と各地で戦い、榎本武揚の函館まで転戦した。明治時代では、栄一の仲介により大蔵省に入る。もともと栄一と同じく経済の才能もあった成一郎は、そこから実業者として手腕を発揮し、後に生糸貿易業、廻米問屋などを経営するなど、明治時代の実業家として大きな成功を収めたのである。
1912年、75歳で死去した。