温井ダム
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温井ダム(ぬくい-)は広島県山県郡安芸太田町大字加計(旧加計町)地先、太田川水系滝山川に建設されたダムである。
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[編集] 沿革
太田川水系では戦前よりダムが建設される様になった。滝山川でも上流部に1935年(昭和10年)に王泊ダムが建設され、1957年(昭和32年)には嵩上げが行われた。下流にも滝山川ダム(小堰堤)が建設されたが何れも発電専用ダムであり、治水・利水が目的の多目的ダムは建設されていなかった。太田川の治水事業では1965年(昭和40年)に太田川放水路が通水し、下流地域での治水は万全となった。
だが上流部では改修は殆ど放置に近い状況であった。そこに1972年(昭和47年)7月、梅雨前線による集中豪雨が流域を襲い、旧加計町などで甚大な被害を生じた。建設省(現・国土交通省中国地方整備局)はこれを受け上流部の河川整備(築堤・護岸改修)を行う一方、ダムによる洪水調節の必要に迫られた。この為支流の滝山川中流部、加計町温井地点にダムを建設する計画を1974年(昭和49年)より着手し、翌1975年(昭和50年)には「太田川水系工事実施基本計画」において太田川本川の「吉和郷ダム建設事業」と共に「滝山川総合開発事業・温井ダム建設事業」として正式に盛り込んだ。尚、「吉和郷ダム」計画はその後立ち消えとなっている。
[編集] 概要
当初は高さ155.0mの重力式コンクリートダムとして計画されていたが、地形両岸部の岩盤が堅固であった事から経済性を鑑みアーチ式コンクリートダムとして施工される事になった。又、洪水調節の指標・計画高水流量の関係から高さも156.0mに変更した。堤高では西日本の全ダムの中で最も高く、アーチ式ダムとしても黒部ダム(黒部川本川・関西電力株式会社)についで全国第2位の規模となった。太田川水系では初めての多目的ダムであり、洪水調節・不特定利水の他広島市・呉市・竹原市といった人口密集地域及び江田島市等瀬戸内海島嶼部への上水道供給、余剰水を利用した発電を目的としている。計画発表から26年後の2001年(平成13年)に完成した。
ダムは以後広島県の水需要に応え、下流の高瀬堰や太田川放水路と連携して水害の発生を防いでいるが、2005年(平成17年)の台風14号において洪水調節のあり方について一部から疑念が巻き起こり、訴訟沙汰にまで発展している。これは新聞報道によって更に問題になったが、実際は上流の王泊ダムと連携して適切な洪水調節を行っている事が判明しており、ダム流域以外での豪雨が下流に水害を齎したものであると分析されている。だがこれをダム放流によるものと誤解された節があり、新聞報道が更に助長したとも言われている。治水の難しさを再認識すると同時にダム報道に対する問題点も指摘されている。
[編集] 補償問題と地元への還元
ダムの実施計画調査は1975年より始まったが、それに先立つ事8年前(1967年〔昭和42年〕)に予備調査が始まっている。この時より水没する温井地区の住民はダム建設反対運動を起こしている。実施計画調査の開始された年水源地域対策特別措置法(水特法)が施行され、水没する地域の住民に対する補償の国庫補助や地域活性化の為の周辺整備が法的に整備された。だが温井ダムは水没世帯数27戸(内水没戸数13戸、非水没戸数14戸)で水没農地面積も少なかった事から水特法指定基準の対象外となっていた。住民は将来的に安定した生活水準を保証する事、ダムを利用した地域活性化を図る事を主な要求目標とし、温井地区の生活再建・地域振興を建設省に訴えた。交渉は長期に亘ったが、建設省は水特法に準拠する形で補償対策に応じた。具体的には、
- 広島県・広島市とも共同して地域整備事業に協力する事。
- 非水没地域の14戸も生活基盤が崩壊する事を鑑み水没世帯に認定し、同列の補償を行う事。
- 代替造成地をダム近傍に建設(新温井地区)し、家屋・公共施設・農地を水没前と同様の環境で造成する事。
- 周辺整備施設を建設し、地域観光の拠点とする事。
等を補償内容とした。こうして1986年(昭和61年)に足掛け19年に亘った補償交渉は妥結。最後まで難航した漁業権補償も1990年(平成2年)に妥結した。代替地である新温井地区は中心を国道186号が通り、適度な間隔でコミュニティが維持される環境を形成、27戸中21戸が移住した。又周辺整備として湖畔に自然生態公園や文化交流センターの建設、リゾートホテル「温井スプリングス」を建設しダム・ダム湖・周辺地域を観光拠点とするべく整備を行った。又ダム湖も地元温井に伝わる「江の淵大蛇」伝説に登場する龍に化けた姫から「龍姫湖」(りゅうき湖)と命名された。こうした事業者・地元住民の努力により温井ダム・龍姫湖は完成後年間約50万人の観光客が訪れ芸北地域の一大観光地となった。現在でも年間30~40万人がダムを訪れており、ダム完成前の旧加計町訪問観光客に比べると約2.4倍増と成っている。水特法の指定こそされなかったが趣旨には十分叶った補償交渉であり、ここにも「蜂の巣城紛争」における教訓、室原知幸氏の「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」という意識が根付いていると言える。
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