滝川一積
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滝川 一積 (たきがわ かずあつ、1583年(天正10年) - 1660年(万治3年)5月)は、戦国時代の武将。徳川氏家臣。滝川一忠の嫡男で滝川一益の孫にあたる。通称三九郎。子に滝川一明。正室は真田昌幸の五女である於菊。
父一忠は豊臣秀吉により追放されて浪人となっており、関が原の戦い前後の行動は定かではない。旧知であった真田氏の元にいたともいわれ、石田三成の義兄弟であったため運命を共にした宇多頼次と離縁していた娘の於菊をこのときに託されたとも。のち織田長益の推挙によって中村一忠に仕えた。しかし直後の1603年に叔父で徳川家康の下で2000石を拝領して家臣となっていた滝川一時が若くして没し、子の滝川一乗がまだ幼少ということもあって、名代に任じられて家康に仕えた。ほぼ同時期に米子藩では横田騒動が起こっていることも理由の一つとしてある。
その後、大坂の陣では徳川方使番として参陣し、活躍した一積は1000石の旗本となる。於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田幸村の2人の娘たちを養女に迎え、それぞれ片倉重長、蒲生郷喜に嫁がせるなど、たびたび真田氏を救ったため、当主の真田信之は恩人と呼んではばからなかったと伝わる。
しかし1632年(寛永9年)になって、突如としてこれら幸村の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封されてしまう。実際には幕府内の勢力争いが裏にあったとされるが、詳しくは不明。ただし嫡子の一明は、1663年(寛文3年)に再び幕府に300石で召しだされ、再度幕臣となっている。