無外流
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無外流剣術(むがいりゅうけんじゅつ)は、江戸時代中期(元禄6年 - 享保12年1695年6月23日)に辻月丹により開かれた剣術の流儀である。正式には無外真伝剣法(むがいしんでんけんぽう)という。
辻月丹(幼名:兵内)は、近江国甲賀郡出身で、京都で山口流剣術を学んだ後、江戸で道場を開いた。その傍ら禅を修行し、和尚から「一法実無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動著則光清」という偈を得たことにより、流儀の名を無外真伝剣法とした。
最盛期には大名小名30数家、直参150人あまり、陪臣にいたっては1000人以上もの門人が集まり、日本全国に広まった。土佐藩では上士の学ぶ剣法とされ、幕末に活躍した「四賢侯」の一人、山内容堂もこの流儀の剣術を学んでいる(居合は無外流ではなく、長谷川英信流を学んだ)。
また、第5代の都治資幸に学んだ姫路藩士・高橋充亮と高橋充玄により、無外流高橋派が開かれた。高橋派では次代の高橋武成により形が改変され、さらに津田一伝流が採り入れられるなどの発展を遂げた。
大正期の剣の達人、高野佐三郎、高橋赴太郎、川崎善三郎の「三郎三傑」のうち、高橋、川崎は無外流の使い手(高橋は姫路藩の無外流高橋派、川崎は土佐藩伝の無外流)である。
池波正太郎の小説『剣客商売』で登場人物の秋山小兵衛が無外流を使うことで知られる。
自鏡流居合
月丹は自鏡流居合の祖・多賀自鏡軒盛政について自鏡流居合を学び、自分だけではなく弟子にも学ばせたことにより、無外流には自鏡流居合が併伝された。自鏡流宗家が絶えて以降、無外流居合とも称されるようになった。
無外流居合兵道
「無外流居合兵道」は、高橋赳太郎の弟子、中川士龍申一が無外流居合を再編成したものである。
突きと逆袈裟斬りが主体であり、徹底して華美を排した質実剛健な居合術とされる。空手家大山倍達は無外流居合を見て、「日本には居合の流儀はいくつもあるが、無外流ほど実戦的な居合はない」と評したという。