無我
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基本教義 |
縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
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経典 |
聖地 |
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無我 (むが)は仏教用語。我に対する否定を表し、「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。
スッタニパータなどの最初期の韻文経典に、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執(がしゅう)の否定ないし超越を意味し、そのような無我を実践し続けてはじめて、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃(ねはん、ニルヴァーナ、nirvaaNa)の理想に到達できるとする。
初期の散文経典では、我(自我)を「私のもの」、「私」、「私の自我」の3種に分かち、いっさいの具体的なもの、具体的なことのひとつひとつについて、「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私の自我ではない」と反復して説く。これらをまとめて、諸法無我という。
言語対応リスト
- 無我: anaatman, nairaatmya, niraatman (sanskrit)
- 我:aatman, आत्मन्
- 「私のもの」(mama मम(pali))
- 「私」(ahaM अहं(pali))
- 「私の自我」(me attaa मे अत्ता(pali))
- 諸法無我 (sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता(pali))
目次 |
[編集] 部派仏教の無我
部派仏教になるとこの定型が形式化し、説一切有部(せついっさいうぶ)においては、要素である法(ほう、dharma (sanskrit))の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。
この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性(じしょう、svabhaava स्वभाव(sanskrit))と呼ぶ。こうして説一切有部を中心とする部派仏教には法の体系(一種の物理学的体系)が確立されて、阿毘達磨教学として現在にいたるまで熱心に学習されている。
[編集] 大乗仏教の無我観
このような「法有我」もしくは「自性」に対して、これを根底から否定していったのが大乗仏教とくに龍樹(りゅうじゅ)であり、自性に反対の無自性を鮮明にし、空(くう)であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の縁起(えんぎ)説の根本的転換であり、それまでのいわば一方的に進行した関係性を、相互依存性へと広く深く展開させ、相互否定や矛盾をも含む、自在な互換と複雑で多元的な関係とを導入した。それはまた縁起関係にある各要素をどこまでも相対化し、実体的な「我」もしくは「自性」の成立する余地をことごとく奪い去った。このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、あらゆるとらわれから解放された無我説が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド、チベット、中国、日本その他のいたるところで、すべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。
[編集] 人無我・法無我の用例
我執に、「人我執」「法我執」があるように、無我にも「人無我」「法無我」を説く。
ことに、執着してもすべてが無我であるから、執着することができないものに執着するために苦が生じるのであるから、頼りにならないものを頼ろうとすることによって「苦」が生じるのであることを、自分とそれをとり巻く世界に分けて説明する。
- 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろずのことみなもてそらごとたわ言、まことある事なきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
- 歎異抄
と親鸞の言葉が残されているが、「煩悩具足の凡夫」が人無我、「火宅無常の世界」が法無我のことを指して、いずれも頼りにならない「無我」のものであるから「そらごとたわ言」と説明している。
[編集] 一般的用例
どの地域・いつの時代でも、この無我説を故意に悪用し、責任回避や主体性喪失の逃げ口上に濫発された例がみられる。
逆に、「無我夢中」「無我の境地」「無心」などのように、ある一点への集中の極限において他の夾雑物の完全な排除が説かれる。この例はむしろ無我説の原型にかなり近いとも考えられる。