猪俣邦憲
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猪俣 邦憲(いのまた くにのり、天文18年(1549年) - 天正18年(1590年)?)は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。官位は能登守。別名・範直(のりなお)。
[編集] 経歴
北条氏政の弟・北条氏邦に仕える。はじめは武将としてではなく、奉行人として仕えた。氏邦が上野国に総司令官になった頃から武将として認められ、氏邦から箕輪城代に任命された。後に沼田城代にもなっている。1589年、真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を謀略によって奪取するが、これが天下人である豊臣秀吉の発令した惣無事令違反として小田原征伐の理由となってしまう。邦憲は箕輪城にて防戦したが、箕輪城が落城するといずこともなく逃亡してしまう。小田原城落城後、豊臣側の厳しい探索によって捕捉され、磔に処されたといわれているが、実際は弟の富永勘解由左衛門と共に前田家に仕えたという。
[編集] 人物
北条氏政の弟・北条氏邦に仕えていた家臣だと通説では言われているが、猪俣氏は代々が後北条氏に仕えていた富永氏の一族であるため、後北条氏の直臣だったのではないかと思われる。また、有名な名胡桃城落城事件という軽率な行動を起こし、結果としてそれが小田原征伐の口実になったことから、多くの史書で邦憲は手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士と虚仮下ろし、小田原征伐の口実を作った事件も邦憲の単独行動とされている。
しかし、邦憲のような出先の一家臣の身分で、本当に敵の城を落とすことができるものであろうか。近年では、これは邦憲の単独行動ではなく、「反秀吉派」の北条氏政か氏邦の指令があったとも言われている。また、当初秀吉は沼田一帯のほとんどを北条領とするなど、臣従すれば後北条氏をそのまま存続させる意図とも受け取れる宥和路線を取っていた。だが、大幅な譲歩をもってしてもいつまでたっても臣従しようとしない後北条氏に対して業を煮やしていた。また、沼田城を奪われる形となった真田氏にとって現状はとても受け入れられるものではなく、名胡桃城を拠点に後北条氏に対する挑発行為を行っていた可能性がある。後北条氏の家中が「豊臣氏への臣従」で纏まらない以上、遅かれ早かれ小田原征伐が起こったことは間違いなく、邦憲一人を責めるのには問題があるとも思われる。