由良成繁
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由良 成繁(ゆら なりしげ、1506年(永正3年) - 1578年8月3日(天正6年6月30日))は、上野国の戦国大名。横瀬泰繁の子で、由良国繁、渡瀬繁詮、長尾顕長の父に当たる。横瀬氏は小野氏であるが、由良氏を称してからは清和源氏新田氏族。
はじめ横瀬氏は、岩松氏に仕えていたが、下克上を起こして主家から新田金山城を奪い、姓を横瀬から由良に改めた。これは、横瀬氏こと由良氏が、戦国大名として独立したことを表明するためであったと言われている。下克上された岩松氏は、徳川家康に小禄で取り立てられるまで、桐生で監禁生活を送っていた。
戦国大名となった由良氏の領国である上野国の周辺には武田氏、上杉氏、古河公方足利氏、そして後北条氏と周囲を強大な勢力に囲まれており、成繁はどれかの勢力に属して生き残りを図るしかなかった。そして上杉謙信、次いで北条氏康に属した。そして氏康のもとで、1569年の謙信と氏康の相越同盟を長尾当長と共に成立させるのに大いに貢献した。
1573年に館林城を陥落させ、後桐生氏の居城である柄杓山城を落とし、同氏を滅ぼすと、居城であった金山城を息子国繁に譲り、翌年には柄杓山城に隠居した。そして鳳仙寺を建立し城下町を整備するなど善政をしいたが、1578年に桐生で死去した。
[編集] 由良氏と、新田氏
由良(横瀬)氏は、横瀬時清の婿として、新田義貞の子の貞氏を迎えたことで、新田義貞の子孫を称する。もっとも史料上の裏付けが乏しく、僭称であるとみなす意見が有力である。
由良成繁・国繁の末裔は、江戸時代に幕府高家となり、明治維新を迎えた。南朝の忠臣、新田義貞の正当な末裔ということで、華族令により爵位を望んだ。しかし明治政府は、これを却下して、幕府の旗本として、家名を存続していた岩松氏を、新田氏の末裔として男爵を授けた。