畠山義寧
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畠山 義寧(はたけやま よしやす、寛文3年(1663年)頃 - 延宝3年6月4日(1746年7月21日))は、江戸幕府の高家旗本。元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)に関与した。通称は修理(しゅうり)、官位は従四位下・左少将・下総守(しもうさのかみ)。
高家肝煎・畠山飛騨守義里(3,126石・従四位下侍従)の長男として誕生。母は松平縫殿助真次の娘。この畠山家は能登畠山家といい、清和源氏足利氏支流の畠山家の分家にあたる家柄だが、本家畠山家よりこちらの能登畠山家の方が先に高家に列している(畠山基玄を参照のこと)。延宝3年(1675年)2月28日はじめて将軍徳川家綱に謁見。延宝6年(1678年)5月4日表高家に列した。天和元年(1681年)7月22日高家旗本の列を離れ、小姓に転じたが、天和2年(1682年)7月15日に辞職。貞享3年(1686年)7月9日父義里の隠居により、畠山家の大和国宇智郡・河内国交野郡・摂津国豊嶋郡の所領3,126石を相続。元禄元年(1688年)7月18日ふたたび小姓となったが、12月11日には将軍徳川綱吉の不興をかい、遠ざけられる形で再び表高家に戻った。この際将軍への拝謁も禁止されたが、元禄7年(1694年)5月8日から再び拝謁を許され、元禄12年(1699年)11月28日には奥高家に昇格とともに従五位下侍従に叙任し下総守と称した。
宝永4年(1709年)5月13日東山天皇の譲位にともない、将軍の使者として京都へ赴き、7月12日従四位下に昇った。同年中の12月21日、東山上皇が崩御し、その際も使者として京都へ派遣された。享保元年(1716年)7月1日に高家肝煎となり、8月18日に徳川吉宗の将軍宣下のために松平讃岐守頼豊とともに京都へ赴いた。10月21日左近衛少将に進む。享保2年(1717年)5月7日、増上寺において徳川家継(7代将軍)の一周忌法事の席において諸大名・旗本が平伏していた際に勅使として参拝していた鷲尾隆長が「公家の自分も平伏するのか?」と義寧に尋ねたが、義寧は「その必要はないでしょう」と答えた。これが不念として幕府から出仕を留められたが、6月25日には許された。享保14年(1729年)3月19日に高家肝煎職を辞して表高家に列する。享保18年(1733年)12月4日に隠居し、子の畠山義躬に家督を譲った。隠居後は梅厳と号した。延享3年(1746年)6月4日に死去。享年84。菩提寺の臨江寺に葬られる。
正妻は前田利意の娘。長男義躬、三男知義(高家旗本上杉義陳養子)ら三男二女あり。
[編集] 元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)との関係
忠臣蔵のドラマや映画の松の廊下の刃傷のシーンにおいて吉良上野介の後ろには吉良と同じ狩衣の衣装を着た手下風の二人組が付き従っていることが多いのをご存知だろうか。吉良と一緒に浅野内匠頭に嘲笑を浴びせるなどして、浅野が堪忍できずに刃傷に及んだ際にはあわてて吉良をどこかに運んでいくという役柄が多い二人である。二人は吉良の部下にあたる奥高家衆という設定であり、1人がこの畠山、もう1人は品川豊前守伊氏である。これは吉良を運んだのは品川豊前守と畠山下総守であることが「梶川筆記」に記されていることに因む。しかし浅野を取り押さえる梶川与左兵衛は男前の役者であることが多いのに対して、“悪党”吉良を運んだだけのこの二人は大体小心者風の小男に脚色されていることが多い。
また畠山は、吉良邸討ち入りがあった後の元禄15年(1702年)12月15日、吉良上野介の首をあげて泉岳寺に入った赤穂浪士たちに対して復讐のため追討軍の派遣を企図した上杉綱憲(吉良上野介実子)を諌止している。しかしなぜかこれも忠臣蔵のドラマ・映画では上杉家江戸家老の色部又四郎(若しくは千坂兵部)のお手柄ということにされている。色部はこの事件の際、喪中であり出仕しておらず、このような史実はない。また、大河ドラマ『元禄繚乱』において、柳沢吉保側用人出世の場面に名前と贈り物の海栗が登場する『高家の畠山様』とは彼のことと思われる。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 畠山氏 | 江戸幕府旗本 | 元禄赤穂事件関係人物 | 1746年没