直仁親王
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直仁親王(なおひとしんのう、建武2年(1335年)-応永2年5月14日(1398年))は、南北朝時代の持明院統の皇族。花園天皇の皇子で母は宣光門院正親町実子。北朝・崇光天皇の皇太子(厳密には皇太弟)に立てられたが、正平一統の際に南朝軍によって吉野へと連行されて廃太子された。父・花園上皇の御所であった「萩原殿」を継承したことから萩原宮(はぎわらみや)の通称がある。
[編集] 経歴
本来、父の花園天皇は持明院統においては傍流であり、その皇位は嫡流である後伏見天皇-光厳天皇-崇光天皇の系統に引き継がれるものと考えられていたために親王は皇位継承に与れる立場にはなかった。ところが、1348年(貞和4年/正平3年)に元服すると光厳天皇の猶子として皇位継承権が与えられ、その年の10月27日に義兄にあたる崇光天皇の皇太子に立てられた。
ところが、観応の擾乱の最中の1351年(観応2年/正平6年)、室町幕府の征夷大将軍である足利尊氏が南朝の後村上天皇に降伏、これを受けて南朝軍が京都を制圧して北朝方皇族を拘禁した。11月7日(11月26日))、南朝によって崇光天皇と直仁皇太子の廃位が宣言された(正平一統)。
やがて、尊氏と南朝が再度対立して南朝軍が京都からの撤退を余儀なくされると、南朝軍は光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王は南朝の本拠である大和国吉野に連行され、続いて賀名生(現在の奈良県五條市)に幽閉された。1356年(延文元年/正平11年)に解放されて、翌年に京都に帰還するが、京都では既に崇光天皇の実弟である後光厳天皇が尊氏によって擁立された後であり、崇光天皇と直仁皇太子の復位要求は拒絶された。
直仁親王は失意のうちに出家して父の御所であった荻原殿に隠退し、南北朝合一後にこの世を去った。
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