吉野
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吉野(よしの)は、近畿地方の一角で、奈良県南部を指す地名である。その示す範囲は時代によって異なり;最小では吉野山或いは吉野宮(宮滝遺跡)を指し、最大では奈良県南部の山岳地帯を含めた吉野郡全域を指す。サクラの名所としても知られるが、多くは吉野の名を冠したソメイヨシノではなく、ヤマザクラのたぐいである。
2004年吉野・大嶺を含む紀伊山地の霊場と参詣道がユネスコの世界遺産に登録された。
[編集] 地理
紀伊半島の中部に位置し、奈良盆地の南に位置する。高地・盆地・山岳地帯が並存する。多雨地帯として知られ、和歌山県(=紀伊国)と共に「木の国」とも称され、中でも吉野杉は秋田杉、木曾桧と並んで日本三大美林一つとされ、日本有数の林業地帯となっている。
[編集] 歴史
最初に史書に現れるのは、『古事記』・『日本書紀』の神武東征の記事で、熊野から大和に入る通過地として記載されている。元より、半神話の世界なので正確な比定は困難であるが、現在の川上村、或いは東吉野村などの紀の川(吉野川)沿いの地域が想定される。
応神天皇の遊興の地となり、654年には離宮として吉野宮(宮滝遺跡)がおかれたとされ、大化の改新後の古人大兄皇子、または壬申の乱の直前の大海人皇子(天武天皇)及びその妻・鸕野皇女(持統天皇)の隠遁地、持統天皇の行幸の地として記されている吉野は、現在の吉野町の宮滝付近にあった離宮・吉野宮を指すものと思われる。和銅年間以降は「芳野」と表記され、天武系王朝の故地として聖武天皇もたびたび行幸した。また、古代には歌枕の地でもあった。
平安時代には、役行者が開いたと伝えられる金峯山寺が建立され、吉野山は修験道の地となる。
鎌倉時代後期には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が吉野山で倒幕の兵を挙げる。後醍醐は幕府滅亡後に京都で建武の新政を開くが、南北朝時代には吉野へ移り、皇居や行政機関を置いて吉野朝廷(南朝)が成立。吉野町の吉野山を中心とするが、旧西吉野村には行宮としての賀名生皇居があった。川上村にも伝承地がある。南北朝統一後、室町時代にも後南朝勢力の活動地となった。
江戸時代初期には、1614年に徳川家康の顧問を務めた天海の支配下となった。
[編集] 参考
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