真田昌輝
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真田 昌輝(さなだ まさてる、天文11年(1543年)-天正3年5月21日(1575年7月9日))は戦国時代の武将。武田信玄の家臣。幼名を徳次郎。兵部丞。名は「信輝」とも。真田幸隆の次男。母は海野氏の家臣河原隆正の妹(異説あり)。兄に信綱、弟に昌幸、信尹、高勝。妻は相木昌朝の娘。子に信正。
[編集] 経歴
小姓として武田晴信に近侍し、器量を見抜いた晴信により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。晴信に常に付き従い、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。兄信綱とともに50騎を預かる将として歴戦を戦い、兄をよく補佐して信州先方衆の副将格として活躍した。永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、5月21日の設楽原決戦において、織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは、首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく信綱とともに討死した。享年33、法名は風山良薫大禅定門。
なお、子の信正はその後徳川家に仕え、松平忠輝、忠昌に従って越前に在したといい、子孫が今も越前真田家として存続している。