真田信綱
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真田 信綱(さなだ のぶつな、天文6年(1537年)-天正3年5月21日(1575年7月9日))は戦国時代の武将。武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。幼名は不明。源太左衛門尉。子に長男 真田信興、次男 真田信光がいる。娘は真田昌幸の子・信之の側室となる。
真田幸隆の長男として生まれ、幼少時は父と共に武田信虎に追われて上野国に逃亡するが、後に幸隆が武田信玄に臣従するとこれに付き従い、後に信玄の近習として父とともに武田家に仕える。幼少時や初陣などについては資料が無く詳細については定かではない。資料に信綱の名が出てくるのは、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いからで、この時は父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっている。
専ら父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸隆と共に信濃国や上野国を転戦し、永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永録12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。
個人的な武名や華々しい功名話に乏しい人物であるが、他の諸将と共に信玄の帷幄には常に召集されており、重要な合戦にも参戦している事から、家中の信頼が厚い不言実行の人物と言われている。それでも三尺三寸の陣刀・青江貞次を振るう勇将であり、野戦や攻城戦では抜群の手腕を見せたと言う評が伝えられている。
天正2年(1574年)に幸隆が死去すると真田家の家督を継ぐが、1年後の天正3年5月21日(1575年7月9日)の長篠の戦いで昌輝と共に戦死。享年39、法名は信綱寺殿天室道也大禅定門。信綱を討ったのは徳川方の渡辺政綱だというが、信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣の白河兄弟が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は、上田市の信綱寺に収蔵されている。
なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地である。