福原元僴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福原 元僴(ふくはら もとたけ・越後(えちご)、1815年(文化12年) - 1864年12月11日(元治元年11月13日))は、幕末期の長州藩の永代家老。名は勝定、元定。通称は徴之助。号は翠崖。一般的には「福原越後」として知られている。のちの長州藩主毛利定広(元徳)は実弟。
1815年、長州藩の支藩・徳山藩主の毛利広鎮の六男として生まれた。六男であるために家督を継ぐことはできず、藩士の佐世親長の養子となる。1851年、家老に昇進する。1858年、家老にしては家柄が低すぎることから(佐世家は佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。翻って福原氏の祖は毛利氏と同じ大江朝臣長井氏であり、福原氏は宿老の家柄である)、藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄・福原親俊の家督を継承することとなった。
その後は国家老として藩主・毛利敬親を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。しかし1863年、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、来島又兵衛や久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。越後は蛤御門で大垣藩の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し、帰国した。
その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。越後は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司信濃・益田右衛門介と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、岩国の龍護寺で自害した。享年50。
寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。