立花道雪
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立花 道雪(たちばな どうせつ、永正10年3月17日(1513年4月22日) - 天正13年9月11日(1585年11月2日))は戦国時代の武将。豊後の戦国大名である大友氏の家臣。父は戸次親家、母は由布惟常の娘。娘に立花誾千代。娘婿で養子に立花宗茂。号は道雪。初名を戸次鑑連(べつき あきつら)という。
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幼くして両親を相次いで失ったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられたという。1526年に父の死によって大友一門の重鎮・戸次氏の家督を相続する。『大友興廃記』などによれば、道雪は落雷を受けて半身不随になったとする挿話が知られ、それ以来は家臣たちに担がせた輿の上で、常に指揮を執ったと言われている。智勇に優れた人物で、『鬼道雪』、『雷神』と称され、その勇名を耳にした東国の武田信玄が道雪との面会を望んだという逸話も残っている。吉弘鑑理や臼杵鑑速と並んで、大友氏の「豊州三老」と呼ばれた。
1550年、大友氏のお家騒動である二階崩れの変以後は大友宗麟(義鎮)に従い、その家臣となる。中国地方の毛利元就や九州の秋月氏、龍造寺隆信との戦いには常に出陣し、多大な功績を挙げた。政略面においても宿老として宗麟を補佐するなど、その功績は常に一番であったという。1562年、宗麟が出家したのにならって自身も剃髪し、道雪と名を改めた。
1570年、西大友といわれる大友一門の名家立花氏の名跡を相続して立花山城主となる。これにより道雪は、毛利氏の抑えとして大友領北部の軍権を任された。
[編集] 後継者
だが、道雪には男児が無かった。1575年にただ1人の愛娘の誾千代(ぎんちよ)に家督を譲り、立花山城主とさせている。後に重臣の薦野増時(南方録の著者と言われる立花実山の祖先)を養子に迎えようとしたが増時が辞退したため、1580年には高橋紹運の子立花宗茂(当時の名は統虎)を、娘の誾千代の婿として家督を譲っている。このとき、紹運も宗茂の優秀な器量を見抜いていたため、拒絶しようとしたが、道雪の再三に亘る熱心な要請により、拒絶できなかったといわれている。
1578年の耳川の戦い後は、衰退の一途をたどりつづける大友氏を支え続け、紹運とともに各地を転戦する。しかし1585年、筑後に出兵中、高良山の陣中にて高齢のために病にかかり死去、享年73。 墓所は継母が眠る梅岳寺(福岡県新宮町)。肖像画は柳川市の福厳寺所蔵。
[編集] 家臣団
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