細川澄之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
細川 澄之(ほそかわ すみゆき)は、戦国時代の武将。細川政元の養子である。
|
||||
時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 延徳元年(1489年) | |||
死没 | 永正4年8月1日(1507年9月7日) | |||
別名 | 聡明丸(幼名)、九郎(通称) | |||
氏族 | 九条家→細川氏 | |||
父母 | 父:九条政基、母:武者小路隆光の娘 養父:細川政元 |
延徳元年(1489年)、関白・九条政基の末子として生まれる。母は武者小路隆光の娘で、母方の従兄弟に室町幕府第11代将軍・足利義澄がいる。
管領の細川政元には実子が無かったため、文亀2年(1502年)9月、澄之を家督継承者として養子になり、政元から丹波守護職を与えられた。ところが文亀3年(1503年)5月、政元は澄之を廃嫡し、細川義春の子・細川澄元を養子に迎えて後継者に指名した。その後は養父・政元の命令に従って、永正3年(1506年)には丹後の一色義有討伐に赴いたが、敗退している。
永正4年(1507年)6月、澄之の家臣の香西元長や薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の政変が起こる。さらに元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元の重臣・三好之長の機転によって近江に逃げられた。その上で、澄之は元長らによって丹波から上洛し、自ら政元の葬儀を催したことで第11代将軍・足利義澄から政元の後継者と認められた。
なお、澄之は政元の暗殺計画にはほとんど関与しておらず、若年の澄之を新たな細川家当主として擁立することで幕政を牛耳ろうと企んでいた元長・長忠らが中心的な役割を果たしていたとされる。
しかし近江に逃れた澄元と三好之長は近江の国人を味方に引き入れ、8月1日には逆襲をはかって京都に攻め上った。澄元と同じく政元の養子であった細川高国も澄元に加担したため、澄之は敗れて戦死した。享年19。このとき、元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊したのであった。