織田敏広
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時代 | 室町時代 | |||
生誕 | 生年不詳 | |||
死没 | 文明13年(1481年) | |||
改名 | 久広→敏広 | |||
別名 | 与次郎 | |||
官位 | 兵庫助、大和守 | |||
幕府 | 室町幕府:尾張国守護代 | |||
主君 | 斯波義廉 | |||
氏族 | 織田氏(清洲織田家) | |||
父母 | 父:織田郷広 | |||
兄弟 | 織田敏広、織田広近、織田広久 織田広泰 |
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妻 | 斎藤妙椿女 | |||
子 | 織田広高、織田寛広 |
織田 敏広(おだ としひろ、織田敏廣、生年不詳 - 文明13年(1481年))は室町時代の武将。尾張国守護代。織田大和守家(清洲織田家)の祖とされる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
尾張国守護代・織田郷広の子として生まれた。初め久広(ひさひろ)と名乗る。父・郷広が寺社領・本所領を横領して、逐電した為、先代の郷広に代わり、嘉吉2年(1442年)頃に敏広は尾張国守護代と成る。宝徳3年(1451年)頃に主君・斯波氏に命じられ、越前国で郷広を自害に追い込んだ。『応仁略記』に「・・・敏広惣領と成って一錯乱終にして彼が親郷広越前にて生害」と有る。
[編集] 織田敏定との対立
応仁元年(1467年)の応仁の乱が起こると西軍側に付き、文明7年(1475年)11月、京都から尾張国守護・斯波義廉を擁立して、尾張国へ下国する。文明8年(1476年)に下津城の戦いで、敏定に尾張国中島郡に有る尾張国守護所の居城・下津城を攻められ、義父の斎藤妙椿とともに同族の織田敏定と戦うが、敏広は敗れて、下津城を攻落とされ、山田郡の国府宮に逃れた。
文明10年(1478年)、嫡流で有った敏広は兇徒とされ、敏定が幕府から尾張国守護代を任じられた。そして同年の10月12日に戦うが、敗北。更に同年の12月には清洲城の戦いで、再び、義父の妙椿と共に敏広は尾張国春日井郡の清洲城を囲み、敏定に尾張国の共同統治を受け入れさせた。(清洲織田家は葉栗郡・丹羽郡と山田郡の大半と春日井郡・海西郡と那古野を除く愛知郡)
[編集] 晩年
翌年の文明11年(1479年)、尾張国丹羽郡に岩倉城を築城し、岩倉城を居城とする。文明13年(1481年)3月、更に敏定と戦って敗れた。後、病死。(3月以前に戦死とも)。家督は養子の千代夜叉丸(後の織田寛広)が継いだ。
[編集] 関連項目
史料
- 『応仁略記』
居城
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