羽柴秀勝
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 永禄11年(1568年) | |||
死没 | 天正13年12月10日(1586年1月29日) | |||
別名 | 於次(幼名) | |||
官位 | 従五位下、少将。正四位、侍従。 従三位、左近衛権少将。正三位、権中納言 |
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氏族 | 織田氏→羽柴氏 | |||
父母 | 父:織田信長。養父:羽柴秀吉 | |||
兄弟 | 織田信正、織田信忠、織田信雄、 織田信孝、羽柴秀勝、織田勝長、 織田信秀、織田信高、織田信吉、 織田信貞、織田信好、織田長次 |
羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代の武将。織田信長の四男で、羽柴秀吉の養子。
永禄11年(1568年)、織田信長の四男として生まれる。天正7年(1579年)、子の無かった羽柴秀吉の養子となった。これは秀吉が、織田家中における勢力拡大をはかって信長に頼み込んだためと言われている。
天正10年(1582年)3月、秀吉が備中を攻めるとそれに従って備中児島城攻め、高松城攻めに参加した。6月、父の織田信長が本能寺の変で死去してからは「信長の四男」としての名分を義父に政治的に利用され、山崎の戦いでは実兄信孝と共に弔い合戦の旗印とされ、秀吉が主導して行った信長の葬儀では喪主を務めた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加している。
織田領の再分配を決めた清洲会議では、明智光秀の旧領で京都に近い要地である丹波亀山城を与えられた。しかし、その後はもともと病弱だったことが災いしてしばしば病床につき、天正13年(1585年)12月10日、丹波亀山城で病死した。享年18。
旧主織田氏出身の秀勝が継嗣に立てられていれば、秀吉にとっては大義名分となり、秀勝が存命していれば彼が後継者となった可能性も十分にありえるが、ちょうど秀勝の死んだ1585年に秀吉は関白となっており、もはや織田の名分は不要だったとみることもできる。秀吉は、のちに甥を養子として迎えたときに同名の秀勝を名乗らせており(豊臣秀勝)、少なくとも秀勝の死を惜しみ、その名に執心していたことは間違いない。一説によると、秀吉の長浜城主時代には初めての実子を南殿と呼ばれる女性との間に得たが幼児のうちに失った。その実子の名前も秀勝と伝えられている。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が存在する。また、長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭の始まりは、当時長浜城主だった秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民は、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回しことが始まりとされている。