自由劇場
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自由劇場は、
- 19世紀にヨーロッパで始まった演劇運動で、民衆演劇を目指した会員制の公演。フランスの自由劇場(1887年)が始まり。
- 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。本項にて詳述する。
- 串田和美が主宰する劇団および劇場の名前。劇団は後にオンシアター自由劇場と改名している。
- JR東日本が所有し、劇団四季の作品を中心に上演する劇場の名前。 (JR東日本アートセンター自由劇場)
自由劇場(じゆうげきじょう)は、作家・小山内薫と歌舞伎俳優・市川左團次 (2代目)が始めた新劇運動である。劇場や専属の俳優を持たない「無形劇場」で、年2回の公演を目標に、会員制の組織とした。
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[編集] ヨーロッパの自由劇場
運動のモデルになったのはヨーロッパの「自由劇場」である。自由劇場は、フランスのアンドレ・アントワーヌが自然主義演劇を目指して創設(1887年)したもので、商業主義を排した会員制の公演であった。ドイツ(1889年)、イギリス(1891年)など各国にも広まった。
[編集] 設立まで
左團次ははじめ市川莚升と名乗っていたが、先代から明治座を受け継ぎ、1906年に左團次を襲名。襲名披露の興行が大当たりで、収益を元に9か月の欧米視察に出た。海外で新しい演出法や興行法を見て、刺激を受け、歌舞伎界の革新を志した。作家の小山内薫と意気投合し、翻訳劇を中心に上演する自由劇場を始めることになった。小山内と左團次は同年代(左團次が1年上)で10代半ばでともに鶯亭金升の門に入り、雑俳を学んだ仲であった。
[編集] 公演
小山内は森鴎外にイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳を依頼し、練習を重ね、1909年11月に洋風劇場の有楽座で第1回公演を行った。ボルクマンには左團次が扮し、他に左團次一座の若い歌舞伎役者が出演。女優はいなかった。小山内はじめ、誰も実際に『ボルクマン』の舞台を見ていないので、ヨーロッパで見たという人を探してスケッチを描いてもらったり、セリフ回し、しぐさ、演出などすべてが手探り状態であった。鴎外の小説『青年』には自由劇場初演の様子が描かれている。
以後、自由劇場の公演は、第4回(1911年6月)まで有楽座、第5回目以降、帝国劇場(1911年3月開場)で行われた。第5回までは公約通り年2回であったが、6~8回は年1回、1915-1918年の間は中断し、第9回(1919年9月)が最後になった。
第3回(1910年)に小山内訳の『夜の宿』(ゴーリキーの『どん底』)を採り上げた。その後、小山内は1912-1913年に演劇研究のためヨーロッパ各国を訪問し、モスクワでは本場の『どん底』の舞台を見た。帰国後の第7回(1913年)にその成果を生かして再び『夜の宿』を上演した。この時期が自由劇場の最も充実した時期であったようだ。
このほか、チェーホフ『犬』や、メーテルリンク、鴎外、吉井勇、秋田雨雀などの作を上演した。
自由劇場は前後して発足した坪内逍遥の文芸協会とともに、新劇運動のはしりとなり、当時の知識人に新鮮な感動を与えた。