菅源三郎
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菅源三郎(かんげんざぶろう、1883年(明治16年)2月24日-1942年(昭和17年)5月20日)は、日本の航海士、船長。戦後の船乗りの身の処し方(死生観)に影響を与えたといわれる。
母校の東京商船大学と愛媛県の菊間町にある厳島神社にその功績を称え、1945年(昭和20年)1月に菅船長頌徳会により、石像が建立されている。
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[編集] 経歴
1883年(明治16年)2月24日に愛媛県越智郡菊間町に生まれる。
愛媛県西条中学卒業(後の愛媛県立西条高等学校出身)
東京商船学校(後の東京商船大学)航海科47期生―――1908年(明治41年)卒業
(株)日本郵船入社後、船長を歴任
その後、東亜海運にて長崎⇔上海航路 長崎丸船長を勤めるが、その最後の航海で、その後の商船大学の教育のみならず、船員法の船長の責任及び権限の改定に影響を与える以下の事件に遭遇する。
[編集] アメリカの大型商船拿捕の功績
1941年(昭和16年)12月7日、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった同日、午前9時、日本海軍の哨戒機からの連絡を受け、上海沖合いで軍隊輸送船の任務にあったアメリカの大型商船プレジデント・ハリソン(後の勝鬨丸)を発見。その後、同船を拿捕する目的で、丸腰の貨客船“長崎丸”にて一昼夜同船を追跡し、揚子江河口にて同船をかく座(船を浅瀬に上げること)に追い込み拿捕に成功した。 民間人の商船乗りが太平洋戦争開戦日に武勲を立てたとして、当時の大本営の好戦機運を盛り上げると言う意向も相まって、当時の総理大臣、海軍大臣からの表彰も受ける等、一躍、時の人として、正に凱旋将軍の如く、当時の新聞紙上で扱われた。
[編集] 悲劇の海難事故
日本国民を沸きたたせた米商船拿捕から約5か月を経た1942年(昭和17年)5月12日の午後、船長最後の航海として長崎丸にて上海から長崎港外に到着し、附近の哨戒艦と連絡のため、指定航路を僅かに外れた時、不幸にも同船機関室附近に於て、轟然たる大爆音が起り、水柱は天に達し、船体は見る見るうちに傾き始めた。味方の機雷に触れたのだ。死者13名、行方不明者26名を出す大惨事であった。 一人でも多くの乗客乗員の安全に勤め、最後の最後まで船橋を離れることなく、当時の船長としては当然のことながら長崎丸と共に、殉職する道を選び、一旦は水没するが、幸か不幸か、沈没の渦の中からぽっかりと浮かび上がり、九死に一生を得てしまう。 海難事故を起こし乗員乗客に犠牲者を出しながらも、生き延びた“時の人”菅船長に対しての世間の目は非常に冷たく一転、“石もて追われる”立場に置かれてしまう。 その後、菅船長は、世間の冷たい目にも動じることなく、淡々と事故報告書作成、乗員乗客への慰霊等々の事故処理を平常心でこなした後、東亜海運社長、同社支店長、長崎丸一等航海士、そして遺族宛の数々の遺書を認めた後、同年5月20日東亜海運の一室において海員魂の大儀に殉ずるべく、古武士の如く切腹する。
菅船長自害の後、公開された船長の行動と遺書の数々が世間に公開されるや否や、菅船長への同情と畏敬の念から、再び悲劇の英雄として祭り上げられ、“海の守護神”として昭和20年には、母校の東京商船大学と愛媛県の菊間町にある厳島神社に菅船長の石像が建立された。
[編集] 後日談
これだけであれば、戦前戦中の特異な時代の機運に揉まれた不運な一船長の話であるが、この話しには後日談がある。
戦前の商船学校の教育は、理由の如何は問わず、船長たるもの一度海難事故に遇えば、生き残る事を潔しとせず、船とその運命を共にすべきと言うものであったが、それが故に、海難事故の調査や責任の所在が不問にされるきらいがあった。 (戦前に作られた東京商船大学の寮歌(嗚呼月明は淡くして)の中にも“男子一度海に生き、海に死なんと誓いては、聖なる剣抜き放ち…”と言うのがある。)
一方で、戦後の商船教育では、海難事故に遭遇した船長の身の処し方として、船諸共水没し、殉職する事を潔しとせず、乗客乗員、積荷の安全に努めた後、船長自ら生き延びて、海難事故の調査に協力し、海難審判により行政処分を受ける事こそが、船長としての厳しいが正しい身の処し方であるとの教育が行われている。 1970年(昭和45年)当時までは、船員法の中の第2章 - 船長の職務及び権限の中で、俗に言う“船長ラスト”
第12条 船長は、船舶に急迫した危険があるときは、人命、船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽し、且つ旅客、海員その他船内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去つてはならない。
とする条項(通称:船長の在船義務)が残されていたが、その後、
第12条 船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くさなければならない。
に変更された。以上のように、菅船長の事件は、船員法の条項も変更する一つのきっかけになったと言って過言ではない。