菊地養之輔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菊地 養之輔(きくち ようのすけ、1889年9月5日 - 1983年1月5日)は大正、昭和期の日本の政治家、弁護士。日本社会党衆議院議員、日本弁護士連合会(日弁連)副会長。
明治22年(1889年)9月5日宮城県名取郡玉浦村(現在の岩沼市)に生まれる。本籍地は仙台市東七番丁。大正3年(1914年)中央大学法科を卒業する。大正10年(1921年)弁護士試験に合格。翌大正11年(1922年)仙台市で弁護士事務所を開業する。弁護士の傍ら、社会運動に参加し、労働者、農民の立場に立った。昭和4年(1929年)宮城大衆党を結成し、執行委員長に選出される。昭和6年(1931年)宮城県会議員に当選し、2期務める。
昭和12年(1937年)第20回衆議院議員総選挙に社会大衆党から立候補し当選する。以後当選回数通算6回。昭和17年(1942年)には仙台弁護士会会長にも就任している。
戦後の昭和20年(1945年)日本社会党創設に参加し、中央執行委員、宮城県連会長に選出されている。昭和21年(1946年)第22回衆議院議員総選挙後、衆議院に設置された憲法改正特別委員会の委員長代理に就任し、日本国憲法制定に尽力した。昭和28年(1953年)日本弁護士連合会(日弁連)副会長に就任する。弁護士活動は55年の長きに及び、日弁連人権委員、東北弁護士会連合会会長などを歴任し人権擁護の分野で努力した。この他、社会党顧問や日中友好協会宮城県連合会長などを務め日中友好にも努めた。昭和42年(1967年)岩沼町(当時)名誉町民、勲二等瑞宝章を受章したほか、昭和52年(1977年)仙台市名誉市民に推戴されている。
昭和58年(1983年)1月5日死去。93歳。正四位に叙される。