池田光仲
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池田 光仲(いけだ みつなか、寛永7年6月18日(1630年7月27日) - 元禄6年7月7日(1693年8月8日))は、江戸時代前期の大名。鳥取池田家の初代鳥取藩主。徳川家康の外孫であり、別姓は松平。官位は従四位下、官職は相模守・左近衛少将・侍従。父は池田忠雄、母は阿波国徳島藩初代藩主・蜂須賀至鎮の娘の三保姫(芳春院)。妻は紀伊国和歌山藩初代藩主・徳川頼宣の長女の茶々姫(芳心院)。子は長子・綱清(2代藩主)、仲澄(鹿奴藩初代)、九鬼隆律(摂津国三田藩3代藩主・2代九鬼隆昌養子)、清定(若桜藩初代)、久留島通孝(豊後国森藩・4代藩主久留島通政養子)がある。
[編集] 経歴
備前国岡山藩主であった池田忠雄の長男として江戸藩邸で生まれる。幼名を勝五郎という。
寛永9年(1632年)父・忠雄が死去し、わずか3歳で家督を継ぐこととなった。しかし、幼少のため山陽道の要所岡山を治め難いとし、徳川家康の外孫ということもあり改易とはならず、光仲は因幡・伯耆を有する鳥取藩32万石に、従兄弟で鳥取藩主となっていた池田光政が岡山藩31万5千石へ国替えとなった。この際に、叔父の池田輝澄(播磨国山崎藩主)、輝興(播磨国赤穂藩主)、更に光政が後見人として充てられた。幼少のために江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられた。光仲が領国に初入国したのは慶安元年(1648年)、藩主となって16年を経てからである。
寛永15年(1638年)江戸城にて三代将軍・徳川家光の前で元服。片諱を賜り光仲と名乗った。寛永17年(1640年)山崎藩でお家騒動(池田騒動)が勃発し山崎池田家は改易となり、光仲の後見人となっていた叔父・輝澄が領内鹿野に1万石の堪忍料にて預かりとなった。正保2年(1645年)幕府の斡旋で紀州徳川家・頼宣の長女・茶々姫と結婚。以後、鳥取池田家と紀州徳川家との姻戚関係が継続した。
初入国以後は領国経営に心血を注いだ。慶安元年12月(1649年)、幕府に東照宮勧進を出願し、慶安3年(1650年)鳥取東照宮(現在の樗谿神社)が完成した。承応元年(1652年)には藩の実力者で米子城代・筆頭家老の荒尾但馬守成利に責問十余条を突き付けて罷免し、藩主の権力を強化した。
貞享2年(1685年)嫡男・綱清に家督を譲り隠居した。しかしなお藩政への情熱は衰えず綱清を後見した。同年、第二子・壱岐守仲澄に新田2万5千石(のち3万石)を分与し、鹿奴藩(鳥取東館新田藩)が成立した。
元禄6年(1693年)卒中のため鳥取城にて死去。享年64。因幡国法美郡奥谷村(現・鳥取市国府町奥谷)に埋葬され、以後ここが鳥取藩池田家墓所となった。法号は興禅院殿俊翁義剛。没翌年の元禄7年(1694年)に黄檗宗の龍峯山興禅寺(旧・臨済宗龍峯寺)が池田家菩提寺となった。
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