藤原仲成
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藤原仲成(ふじわらのなかなり:宝亀5年(774年) - 大同5年9月11日(810年10月16日))は、平安時代初期の公卿。父は藤原種継。母は粟田道麻呂の娘。
785年(延暦4年)父の種継が暗殺されたため、年少ながら従五位に叙された。妹の薬子が平城天皇の寵愛を受けたため重用され、権勢を誇った。陰険で専横な振る舞いが多かったため人々から憎まれた。807年(大同2年)、藤原吉子・伊予親王母子を無実の罪に陥れた。
809年(大同4年)平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると、権勢の失墜を恐れれた仲成・薬子兄妹は上皇とともに平城京に移り上皇の重祚を画策して二所朝廷の対立を招く。810年(大同5年)参議となり公卿に列する。同年9月、嵯峨天皇が先手を打って仲成を捕らえ、射殺された。