藤原信頼
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藤原 信頼(ふじわら の のぶより、長元6年(1133年)- 平治元年12月27日(1160年2月6日))は、平安時代末期の貴族。鳥羽院の近臣大蔵卿藤原忠隆の四男。兄には奥州藤原氏の藤原秀衡の舅として知られた藤原基成がいる。
[編集] 生涯
1144年、正六位に叙せられる。1146年、従五位下。同年、従五位上に進む。1148年に土佐守、1150年に武蔵守と父の知行国であった国の受領を歴任。1151年には正五位下に進み、翌1152年には右兵衛佐、1155年には従四位下・武蔵守に任ぜられる。後白河天皇に近侍するや、周囲から「あさましき程の寵愛あり」といわれるまでの寵臣となる。1157年、右近衛権中将より蔵人頭・左近衛権中将に任ぜられ従四位上から正四位下、翌1158年に正四位上・皇后宮権亮を経て従三位より同年2月に26歳の若さで正三位・参議になり公卿に列せられる。同年には権中納言に任ぜられ、検非違使別当・右衛門督を兼ねるに至る。天皇の譲位後は院別当となる。
体格は肥満で色白であり、衆道(男色)も好んだ後白河天皇に愛され、宮廷では人目も憚らぬ程の寵愛ぶりであったという。幼い頃から気性が激しく、晩年には悪右衛門督と評せられた。
信頼は大臣大将(右大臣と右大将の兼任)への昇進を望み、後白河院も心を動かされるが、院の信任を受けて権勢を振るっていた信西に厳しく反対され、取りやめとなる。このため信頼は信西を激しく憎むようになった。
信頼は同じく信西を憎む源義朝に接近してこれと結ぶ。1159年12月9日、信西派の平清盛が熊野詣に出かけた留守に信頼と義朝は京で挙兵、信西を捕らえて斬首する(平治の乱)。大内裏を占拠して二条天皇と後白河院を囲って政権を掌握した信頼は有頂天になり、除目を行って自らを近衛大将に任じ、一味の公家に官位を濫発した。
この時、信頼には平家殲滅の意図までは無く、むしろ義朝の勢力の増大を嫌い、そのため義朝の長男・源義平が阿倍野へ出陣して平家を迎え撃つ策を進言するが、これを却下。平家と和睦して後々源平両氏を対立させ、漁夫の利を得ようと画策する。
しかし、京に戻った清盛が信頼の油断を突いて天皇と上皇を脱出させ迎え入れてしまう。信頼・義朝追討の宣旨を受けた清盛との間で合戦となり、結局、信頼と義朝は敗北する。平治物語では戦での信頼の臆病ぶりが描かれている。
[編集] 最後
逃れた信頼は義朝と東国へ落ちようとするが、義朝から「日本一の不覚人」と罵られ拒絶される。仁和寺にいた後白河院にすがり助命を嘆願するが、清盛は謀反の張本人として許さず、六条河原で斬首された。首の座になおってももがきもだえ、おさえつけてようやく首を掻き切ったと言われる。