藤原元命
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藤原元命(ふじわらのもとなが、生没年不詳)は平安時代中期、10世紀後半の中級官人。藤原北家魚名流。父は藤原経臣。母は源致の娘。従四位下。
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[編集] 概要
当時、日本の地方行政は国司の筆頭官である受領に権力が集中し、百姓による受領に対する訴えや武力闘争(国司苛政上訴)が頻発していた。尾張国でも永延2年(988年)に訴えが起こされたが、このとき太政官に提出された「尾張国郡司百姓等解文」(尾張国申文)は国司苛政上訴の詳細を示す史料として有名である。藤原元命はこの時の尾張守で、解文において非法を訴えられ、永祚元年(989年)の除目で守を停止された。その後も長徳元年(995年)の吉田祭での上卿弁代役をつとめたり、他国の受領を歴任するなどなど官界に身を置いた。
[編集] 評価
「尾張国郡司百姓等解文」により、元命を私欲に基づき貧しい農民から苛烈な収奪を行う受領とする俗説があるが、実像は全く異なると考えられている。
元命の甥(一説に叔父)の藤原惟成は、永観2年(984年)に即位した花山天皇の側近として活躍し、花山天皇が精力的に発布した諸政策の立案に深く参与していた。これらの諸政策は、荘園整理令や武装禁止令、物価統制令、地方行政改革などから構成される斬新な内容を持ち、総称して花山新制という。当時の地方における有力者で、農業などの諸産業の大規模経営を展開し富を蓄積していた郡司・田堵負名層は、摂関家や有力寺社(院宮王臣家)と結びついて、法定外の免税権など、多様な既得権を獲得していたが、花山新制はそうした既得権を否定するものであり、花山新制の方針に沿って遂行された元命の行政は、尾張の郡司・田堵負名層との間に軋轢を生むこととなった。そして「解文」を出した郡司百姓らとは零細な経営の貧しい農民などではなく、正にこの裕福で私兵をも養っていた郡司・田堵負名層だったのである。
その後、寛和2年(986年)に花山天皇が摂関家の計略によって退位すると、側近の惟成も失脚、花山新制は終焉を迎え、摂関家が再び政権を握った。そして2年後、惟成の縁戚である元命も「解文」によって受領を罷免されることとなった。「解文」からは、元命が規定どおりの行政を布いていたことや、訴えている非法も元命本人のものではなくその郎党によるものであることが読みとれるなど、むしろ元命自身は苛政を行っていないことが示されている。また、訴え出た郡司・田堵負名層には摂関家と私的な関係を結ぶ者も多く含まれていたと推定されている。尾張の郡司・田堵負名層に元命への不満があったにせよ、それは元命個人に責任があるのではなく、花山新制に主因があったと言える。このように、元命は苛政のために罷免されたというよりも、中央政界の政争の余波を受けたものであり、苛政はあくまで名目だったにすぎないと考えられている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 保立道久、『平安王朝』、岩波新書、1996年、ISBN 4-00-430469-5
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