花山天皇
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花山天皇(かざんてんのう、安和元年(968年)10月26日 - 寛弘五年(1008年)2月8日; 在位:永観二年(984年)8月27日 - 寛和二年(986年)6月23日)は、第65代の天皇。平安時代中期にあたる。諱は師貞(もろさだ)。
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[編集] 系譜
冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。子には花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家)の祖となった清仁親王がいる。
[編集] 系図
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(60)醍醐天皇 |
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(61)朱雀天皇 |
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広平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(62)村上天皇 |
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(63)冷泉天皇 |
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(65)花山天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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兼明親王 |
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致平親王 |
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(67)三条天皇 |
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敦明親王(小一条院) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(源)高明 |
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為平親王 |
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禎子内親王 (後三条母、陽明門院) |
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(64)円融天皇 |
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(66)一条天皇 |
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(68)後一条天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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昭平親王 |
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(69)後朱雀天皇 |
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(70)後冷泉天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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具平親王 |
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(源)師房 〔村上源氏へ〕 |
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(71)後三条天皇 |
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[編集] 略歴
安和二年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観二年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚を持たなかった事は、二年足らずの在位という後果を招いた。
関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政治を行ったが、程なくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。
19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』では更に、藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を即位させる為に陰謀を巡らした事を伝えている。兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家するとそそのかし、内裏から元慶寺(花山寺)に導いて出家させた。ところが天皇落飾の後、道兼は親に断ってくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれた事を知って歯ぎしりをしたと言われている。
花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。
出家後は比叡山・熊野・播磨書写山を転々とし、厳しい修行に勤めたあげく、大変な法力を身につけたという。 正暦の頃、帰京し、近衛南・東洞院東にある邸に住んだ。この邸はのちに花山院と呼ばれ、「花山天皇」の追号の由来となった。だが、晩年には忯子の妹と関係を持とうとしたところ、内大臣藤原伊周との間で揉め事(両者が交際していた妹はそれぞれ別の妹であったが、伊周が法皇に横恋慕されたと勘違いしたのだと言う)を起こして、遂には伊周と弟・藤原隆家が法皇に矢を射掛けて、矢が法皇の袖を突き通した上に別の矢によって法皇の従者を死亡させるという事件を起こした(「長徳の変」)。
[編集] 正式な后妃
- 969~985 藤原忯子 - 太政大臣為光次女
- 971~989 藤原姚子 - 大納言朝光の女
- ?~1035 藤原諟子 - 関白太政大臣頼忠次女
- 972~998 婉子女王 - 一品式部卿為平親王女、のち藤原実資に再嫁
[編集] 皇子女
正式な后妃との間に子はなく、出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませたため、世の人は中務の腹に儲けた清仁親王を「母腹宮」、平子の腹に儲けた昭登親王を「女腹宮」と称した。二人の皇子はのちに、それぞれ冷泉院五宮・六宮として親王宣下。
- 他に皇女たちがいる。
[編集] 在位中の元号
[編集] 諡号・追号・異名
退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
[編集] 陵墓・霊廟
京都市北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)。
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歴代天皇一覧 | ![]() |
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |