藤原済時
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藤原 済時(ふじわら の なりとき、天慶4年(941年) - 長徳元年4月23日(995年5月29日)は平安時代の公卿。左大臣藤原師尹の次男。母は藤原定方の女。兄弟に定時、定昭らがあり、実子に為任、相任、通任、娍子らがいる。また定時の早世により、その子実方を養子にしている。正二位、大納言、左大将、さらに死後右大臣を追贈。小一条大将と号す。
父師尹が没した翌年の天禄元年(970年)参議に叙爵、以後順調に立身し政務に当たった。酒を通じて関白藤原道隆に近く、一条朝初期において藤原朝光らとともによく道隆の補佐に当たった。性質としては虚栄心が強く気難しかったと評されるが、村上天皇が筝で奏でる曲を横で聴いていただけで習得してしまうなど、芸術的素養には恵まれていた。長徳元年(995年)の疱瘡の大流行により、道隆、朝光らと相前後して死去。
娘の娍子は三条天皇の皇后となり、皇太子敦明親王(小一条院)、当子内親王、性信法親王らを生んだ。また、男系の子孫は後世において姉小路家として発展している。