藤原頼通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 頼通(ふじわら の よりみち 正暦3年(992年) - 承保元年2月2日(1074年3月2日))は、平安時代の公卿・廷臣。摂政・関白、太政大臣。父は、藤原道長、母は左大臣源雅信の女、倫子(りんし)。正室は具平親王の女、隆子女王(後に源氏を賜って臣籍降下)、子に藤原通房・藤原師実。通称宇治殿。
後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇三代の御代に渡り、摂政・関白を50年の長きに渡って務め、父道長と共に藤原氏全盛時代を築く。その勢力は父の時代以上のものであったとされているが、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかった事。摂関家の後継を巡って弟の教通と対立した事が摂関家の衰退を招いた。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 1003年(長保5)2月20日、元服。正五位下に叙位。昇殿と禁色を許される。 2月28日、侍従に任官。 月日不詳、右近衛少将に転任。
- 1004年(長保6)1月7日、従四位下に昇叙し、右近衛少将如元。 1月24日、近江介を兼任。
- 1005年(寛弘2)10月22日、従四位上に昇叙し、右近衛少将如元。
- 1006年(寛弘3)3月4日、従三位に昇叙し、右近衛少将如元。 9月2日、正三位に昇叙し、右近衛少将如元。
- 1007年(寛弘4)1月28日、春宮(のちの三条天皇こと、居貞親王)権大夫に転任。
- 1008年(寛弘5)10月16日、従二位に昇叙し、春宮権大夫如元。
- 1009年(寛弘6)3月4日、権中納言に転任し、左衛門督を兼任。春宮権大夫如元。
- 1011年(寛弘8)6月9日、正二位に昇叙し、権中納言・左衛門督如元。 6月13日、春宮権大夫如元。
- 1013年(長和2)6月23日、権大納言に転任し、春宮権大夫如元。
- 1015年(長和4)10月27日、左近衛大将を兼任。
- 1016年(長和5)1月29日、春宮権大夫を停む。
- 1017年(長和6)3月4日、内大臣に転任。 3月6日、左近衛大将如元。 3月16日、摂政宣下。内大臣・左近衛大将如元。 3月22日、左近衛大将を辞任。※道長は摂政を辞し、頼通が26歳で後一条天皇の摂政になった。道長は太政大臣となって、頼通を後見した。
- 1019年(寛仁3)12月22日、摂政を止め、関白宣下。内大臣如元。
- 1021年(寛仁5)1月7日、従一位に昇叙し、関白・内大臣如元。 改元して治安元年7月25日、左大臣に転任し、関白如元。 8月10日、太政大臣(藤原公季)の下に列する旨の宣旨あり。
- 1028年(長元元)6月、父の死から半年もたたない6月に平忠常の乱がおこる。朝廷は討伐軍を送るが、乱を収拾するのに5年もかかった。
- 1029年(長元2)10月17日、太政大臣藤原公季の薨去に伴い、一座となる。
- 1053年(天喜元)3月、平等院鳳凰堂を建てる。
- 1060年(康平3)7月17日、左大臣を辞し、関白如元。
- 1061年(康平4)12月21日、太政大臣宣下。関白如元。
- 1062年(康平5)9月2日、太政大臣を辞す。
- 1064年(康平7)12月13日、藤原氏長者を辞す。
- 1067年(治暦3)4月16日、関白を辞し、准三宮宣下。
- 1072年(延久4)4月29日、出家。法名:蓮華覚、のち、寂覚
- 1074年(延久6)2月2日、薨去。享年83
[編集] 系譜
- 父:藤原道長
- 母:源倫子(源雅信女)
- 妻:隆姫女王(具平親王女)
- 妻:源憲定女
- 長男:藤原通房(1025-1044)
- 妻:藤原祇子(藤原種成女)
- 妻:源祇子(敦平親王女) ⇒藤原祇子のこと。出生がはっきりしないため、藤原頼成女とも具平親王女とも言われる。