衛藤晟一
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衛藤 晟一(えとう せいいち、1947年10月1日- )は、平成期の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員。大分県大分市出身。大分県立大分上野丘高等学校卒。
[編集] 人物
1970年 大分大学経済学部卒業。学生時代は別府大学の井脇ノブ子らとともに生長の家学生会全国総連合(生学連)で民族派学生運動に従事する。1973年 大分市議会議員に当選。1979年には大分県議会議員に当選。
1986年7月、衆議院議員選挙に出馬するが落選。1990年2月 衆院選に初当選。以後3期連続当選するが2000年6月の衆院選では民主党の釘宮磐に敗れ落選。2003年11月の第43回衆議院議員総選挙で2000年復活当選を果たす。
2004年9月厚生労働副大臣に就任。しかし2005年7月5日の郵政民営化法案の衆議院本会議採決では反対票を投じたため副大臣を罷免される。このため、2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず無所属で大分1区から出馬し民主党の吉良州司に3927票差で落選。
2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で比例区からの立候補を希望し、自民党に公認を申請したことに対し衛藤と政策距離が近い安倍晋三総裁(内閣総理大臣)は復党を認めて公認すべきだとの考えを示し、郵政造反組復党問題が起こる。前年の郵政造反組復党問題が長引いたことが内閣支持率の低下の一因とされる経緯から当初は復党に慎重な姿勢であった中川秀直幹事長も2月25日に一転して復党・公認を容認する姿勢に転じた。
その一方、参院比例区で自民党に対して選挙協力を求めている公明党は衛藤の比例区出馬が公明党との競合関係を発生させることから反発しており、自民党が衛藤を復党・公認した場合は「選挙協力の見直しも有り得る」と表明し、公明党との関係や中央で頭越しに決定されることに自民党大分県連も反対していた。しかし、後に公明党が容認したことから、自民党大分県連も一転して容認するようになった。
3月9日、自民党党紀委員会は衛藤晟一の復党を賛成10票、反対7票の多数決で認めた。党紀委員会は全会一致や委員長一任が慣例となっており、多数決は異例である。党紀委員会では反対意見として「郵政民営化に反対して落選した前衆院議員は他にもおり、衛藤前議員のみに復党を認めるのは一貫性に欠けるという意見」、「前回の復党で内閣支持率が低下したことなどから意見」が出た。