西高瀬川
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水系 | 淀川水系 | |||
延長 | 15.4 km | |||
水源の標高 | - m | |||
平均流量 | - m³/s | |||
流域面積 | - km² | |||
水源 | 桂川(京都市右京区) | |||
河口 | 鴨川(京都市伏見区) | |||
流域 | 京都市右京区、中京区、 下京区、南区、伏見区 |
西高瀬川(にしたかせがわ)は京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川。
目次 |
[編集] 流路
京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の桂川から取水し、京都市伏見区下鳥羽上向島町で鴨川に注ぐ。 流路は直線的で、度々流れる方角を変える。
分流後、途中で有栖川や天神川と交差する形で東に流れ、中京区壬生天池町で南に向きを変える。
そのまま南に流れた後、中京区壬生高樋町で西に転じ、中京区壬生森前町でさらに南向きに流れる。
この後、下京区西七条西八反田町でまた西に向きを変え、下京区西七条八幡町で南に向く。
そして、南区吉祥院西ノ庄渕ノ西町、南東に転じ、吉祥院下水処理場でまた南に向きを変え、最後は伏見区下鳥羽上向島町で鴨川に合流する。
[編集] 歴史
江戸時代初期に角倉了以により大堰川が開削され、丹波地方と京都の間の水運が確保された。 その大堰川によって運ばれた丹波地方の木材などを、京都側の終点である渡月橋上流から、市中心部に直接引き込むための運河として、文久3年(1863年)に嵯峨(渡月橋上流)~千本三条が開削された。 のちの、明治3年(1870年)、当時の京都府が引き継ぐ形で伏見の鴨川まで開通させる。
運河以外にも、京友禅などの染物の工場から出る排水を流すための下水路としての役割も担っており、川の色が日によってさまざまな色に変わったといわれている。
しかし、鉄道や道路などの陸運網が発達していくにつれ、利用価値が次第に薄れていき、運河としての機能を失っていった。
また、たびたび水害が発生していたため、治水を目的に天神川を昭和10年(1935年)に開削。これにより、西高瀬川が分断されることになる。
[編集] 現在
桂川から天神川までの嵯峨や太秦では水量があるが、全てが天神川に注がれる形になってしまっているため、天神川より東側(壬生~吉祥院)に流入する水はほとんどなく、溜まった雨水が流れる程度、もしくは、干上がった状態になっている。
このため、堆積していた有害物質が雨水によって溶け出しても下流まで押し流すまでに至らず、さらに堆積していき、悪臭や水質汚濁の原因になっている。
なお、吉祥院から鴨川の合流までは吉祥院下水処理場で浄化処理された下水が流入するため、水量はある。
平成14年(2002年)に国土交通省「第二期水環境改善緊急行動計画」の対象河川に選定され、水に親しむことのできる環境づくりや水質改善などの整備を進めている。
[編集] 西高瀬川に掛かる橋
小さい橋が多く掛けられており、特に太秦では住宅各戸に1本ずつ橋が掛けられている。また、河川そのものが小さく、名前が不明な橋も多い。