設楽貞通
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設楽 貞通(したら さだみち、天文3年(1534年) - 慶長元年(1596年))は、室町時代末期から安土桃山時代にかけての武将。貞道とする説もある。通称・小四郎、甚三郎または神三郎。但し「設楽神三郎」という同姓同名の人物としばし混同される。設楽小四郎の呼称のほうが一般に知られ有名。官は越中守、三河設楽郡川路城主。設楽貞重の子。
駿河今川家に仕えていたが、今川氏真の代になってから三河徳川家に通じた。以後は徳川の傘下となり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では岡崎城にあって徳川勢の一翼を担った。
この功績で、徳川家康の側近くで調略の実行を任されるなど陰謀の中枢となる。
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[編集] 野田城の戦い
継室の実家・野田菅沼氏を支援すべく、僅かではあるが手勢を率いて野田城に籠もる。この時、笛の名手・村松芳休と親しかったとも言われ、とくに徳川家の記録に記される鉄砲(信玄砲として現在でも保存されている)による狙撃説・武田信玄死因にも関わっているという説が新たに取りざたされている。
[編集] 長篠の戦い
天正3年(1575年)、酒井忠次の鳶ヶ巣山奇襲隊を支援するため、手勢500で八名郡樋田に布陣。長篠城から豊川沿いに下流へは東岸に狭い路が続くが、それが広くなった所が樋田である。奇襲成功の折には武田軍の逃亡兵を迎撃、殲滅させる目的であった。