ノート:越後長岡藩
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世襲家老はそれぞれの氏族の項目に分割して解説すべきではないでしょうか。218.45.174.71 2006年6月2日 (金) 21:16 (UTC)
- 私もそう思います。門閥についての項目は長岡藩の説明の域を逸脱していると思います。また、支藩の説明についても然り。殊に笠間藩・田辺藩の説明は、それぞれ別記事があるにもかかわらず長々と説明しており蛇足に他なりません。Reggaeman 2006年8月15日 (火) 8:53 (UTC)
- 私も同意見です。愚見を申し上げますと、現在のところ、「越後長岡藩」の記事の中では「門閥」と「支藩」の項の記述に比重がたいへん偏っております。しかし、これらについては、すでに別記事として存在するものもありますし、詳述は藩の説明としてはかえって適さないようにも思えます、ですので、「長岡藩」での記述は最小限に留め、それ以外の記述はすべてそれぞれの記事にまとめたほうが良いと思います。むしろ藩の説明として必要なものは、項目で言うと「歴史」と「藩政」の部分だと思います。今後は、これら2項目の記述を拡張・深化していく方向にしたほうが良いと思います。藩の特徴、具体的には明治維新・廃藩置県までに至る藩政の流れや藩制機構、家臣団編成、各時代の藩政改革の内容やその特徴、藩内の経済・社会(文化も含め)の様相などといったものを詳述していったほうが、藩の説明としては適当であると思います。と、つらつら偉そうなことを申しましても、私は長岡藩については全く知識を持ち合わせてはおりませんので、今後の記述の方針等に関しましては、これまで詳細な記述を手がけてこられた方々にお頼みするほかございませんが、いかがでしょうか。提案までに。--61.210.16.113 2006年8月23日 (水) 03:05 (UTC)
- もう一つ疑問なのは長岡藩の前身である蔵王堂藩(堀氏)が本項へのリダイレクトになっているにも関わらずほとんど触れられていないような気がするのですが(治世の短さを考慮しても歴代藩主一覧すらないのは余りにも牧野氏に偏重しているのでは?)。--水野白楓 2006年8月29日 (火) 06:27 (UTC)
- 蔵王堂藩記事につきましては、当、長岡藩の歴史記述の一部を転載いたしましたので、ここにご報告申し上げます。また、削除依頼が出されている「門閥」からの転載である越後長岡藩の家臣団、当、長岡藩から分離したにもかかわらず凄い容量で驚きました。なお、越後長岡藩の家臣団につきましては、削除後改めて不備無きよう投稿しようと思っています。Reggaeman 2006年8月31日 (木) 11:51 (UTC)
これだけ上級家臣の記述が重厚長大となったのだから、記事分割は、当然かと思います。
もっとも、森を見て木を見ると申しましょうか、鳥瞰図のような説明があてもよいと思いますので、越後長岡藩の記事に家臣団の概要くらいは置いてもおかしくないと思います。 --Norichann 2006年8月31日 (木) 21:34 (UTC)
- 分割に賛成。事実上の親記事になる越後長岡藩には、その家臣団編成の概要くらいは残したほうがよいと考える。そこから内部リンクで別ページに飛ぶことができて、一般的な利用者にも便利。完全(100%)に家臣団の記事を切り離すことには反対。これだけ家臣の記事が集積したのだから、有効に使用・閲覧に供される方策を検討すべきと考える。--鉄三郎 2006年9月1日 (金) 05:25 (UTC)
三河松井氏・三河牧野氏の投稿をしているものです。松井系牧野氏(家老牧野平左衛門)について三河松井氏への移動の提案がありますが、安易な移動は異動先での混乱を招きかねません。まず、現状の問題は長岡藩家臣団のページのいびつさにあります。内容の詳しさは必要なことですが、ページの趣意をよく勘案し、全体のバランスを考えて投稿する必要が有ります。また、投稿者は他の利用者の立場も考えて判りやすく簡潔にまとめる事が大事と存じます。今後、当家臣団ページを残すので有れば(どの様な手続きを経るにせよ)、特にこれまでの投稿者は責任を以て記事の構成を組み直し、要約する事が必要と思います。さもなければ現状の形で残すことは賛成できません。(内容の貴重さは私も感じていますが・・・)
私も家老の牧野氏(山本姓・松井姓)に投稿しているので、自分投稿分について、内容の取捨選択を改めて今後検討いたします。なお、数百家ある家臣団の全てを記述することはデータベースではないので勿論ありえませんが、家臣のどれを取り上げるかの基準が曖昧のような気がします。上級家臣だから取り上げるというのも何かはっきりしません。当藩の大組とは上級家臣を直接意味しないと思います。大組は藩の軍制上、家老が組頭となって率いるいわば大隊編成であって、それ故に百石未満の者もいると思われます。また、家老も家格としての側面と、軍制上の役職の両側面があり、家老連綿とされる家の者も家老本職に就任して初めて家老になるのです。この様に藩の機構・組織編成の内容を明らかにすることが先決であり長岡藩の本文ページでこれを明示することが利用者の理解に資すると思います(そちらが重要)。アカウント登録外者が生意気言って大変恐縮ですが、検討の足しにしていただければ幸いです。--利用者:219.107.99.98 2006年9月2日(土)12:35 (UTC)
- Reggaeman様、小諸藩の記事の分割、ありがとうございました。延々と議論しても、越後長岡藩の結論が出ないので、とりあえず既に分割されている記事を、一度消去して(手続き違反であるため)、もう一度、記事を再生して頂くのがありがたいです。あとはそれぞれの投稿者のモラルで投稿・整理していく以外、ないのではないでしょうか。強硬に記事分割を反対しているかたは、いまのところおいでにならないようですから。また百科事典なのですから、ある程度データーベース化するのは当然なのでしょうか?--219.120.30.142 2006年9月2日 (土) 13:38 (UTC)
- 余談ですが、家老首座連綿の稲垣氏は、7歳で家老本職・次席家老となった実績があります。このときの首座は、例外的に山本氏であったようです。勿論、一種の家老見習いであったと思います。越後長岡藩の大組は、馬上が許されているかどうか、家老に直接統率されているかどうかです。もっとも大組以上の家に属する家族で、部屋住み身分や隠居であるにもかかわらず役職に就任している場合は、微禄であっても、馬上が許され大組(または寄合組)に列することがありますが、家督を相続している当主の場合は、50石未満で、大組に所属というのは、あり得なかったようです。もしあれば不勉強なのでご教示下さいませ。その一方で、50石以上、100石未満で小組であった者もいたようです。大組は大雑把にいって広義の上級藩士ではあるが、50石以上、100石未満の石高は重畳的な部分となると思います。江戸幕臣の旗本に50石の者もいた一方で、300石で旗本の資格がない御家人が存在したが、500石の御家人はいなかったと云うのと性格が似ていると思います。また上級家臣でなくても、話題性や研究価値のある家は、投稿してよいのではないでしょうか? 上級以外は、反対とは考えていません。例えば同性愛者で、美しき小姓の柴崎氏(大胡在城期仕官)にストーカー行為をして、切腹を命じられた牛久保以来の家柄の渡辺氏などがあげられると思います。利用者:219.107.99.98氏(他のIPからの投稿もかなりあるようにお見受けしますが)におかれましては、ここ数日投稿なさっているご様子がなかったようでいらしたので、この間に越後長岡藩記事分割の話題や、松井氏の記事改編・整理がノートで話題になり、ウィキ上においでになっていないかと心配しておりました。これからもよろしくお願いします。--219.120.30.142 2006年9月2日 (土) 13:44 (UTC)
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- 議論が熟さないまま、勝手に記事を分割してしまったのは勇み足だった(しかも分割の方法を無視して)と反省しております。しかし、どうやら皆さんのご意見が纏まったようで安心しました。また、家臣団についての主筆者様からも分割に賛同して頂いたので、管理者様には勇み足の記事(越後長岡藩の家臣団)を早々に削除して頂ければと思います。Reggaeman 2006年9月3日 (日) 00:55 (UTC)
記述者の方々の知識の深さにはただただ脱帽です。一つお伺いしたいのですが、みなさんは藩の職制などの詳細を、いかなる資料から知りえているのでしょうか。私だと、自治体史ぐらいしか思い浮かびませんが、その他にも何かあるのでしょうか。「牧野家御取締抜書」とかいうのも、自治体史に載っているのでしょうか。後学のためよろしくご教授ください。
上記はどなたのご質問でしょうか?ご署名をお願い致します。 218.227.59.174 2006年9月29日 (金) 15:12 (UTC)
[編集] ぽこ2211さんの提案
2007年1月6日(土)21:27 における Kounosu さんの「越後長岡藩」の編集は、極めて大きな変更ですので、この場での議論を提案します。
まず、上記 Kounosu さんの編集では、「単に長岡藩とも呼ばれる。」となっています。 しかし、Kounosu さんの編集の前の版までは、「本来は長岡藩であるが、越後長岡藩と呼ばれることもある。」という流れになっており、主従が逆になっています。
次に、上記 Kounosu さんの編集では、「山城長岡藩と、混同されるため、越後長岡藩と国名を冠して、標記されることが多い。」となっています。しかし、単に「長岡藩」と記載した場合は、山城の方は指さず、越後の方を指すため、混同することはありません。また、越後の方を指す場合に、「越後長岡藩」と標記されることは、「長岡藩」と標記されることより多くありません。
Kounosu さんの新説は、さておき、ここで、私(ぽこ2211)は、「高田藩」の記載を参考にすることを提案したいと思います。 単に「高田藩」と記載した場合は、豊後の方は指さず、越後の方を指します。また、「越後高田藩」と標記されることはありません。 そして、高田藩のことが記載されている他のページ(例えば、藩の一覧)を見ても、このことは徹底されているようです。
ご意見を頂ければ幸いです。--ぽこ2211 2007年1月7日 (日) 01:15 (UTC)
- 大騒ぎするほどのことでもないかと。織田信行など、正式名称でないただの通称が記事名になっている記事なんてゴロゴロしてますよ。長岡藩の記事を越後長岡藩に移動した経緯は不明ですが、高田藩の曖昧さ回避処理をした方とは編集方針が違っていたというだけの話でしょう。わざわざもう一つの長岡藩の記事に「山城」とつけ足した方もいるようですしね。--61.213.75.108 2007年1月7日 (日) 02:15 (UTC)
ご意見、ありがとうございます。「長岡藩でも、越後長岡藩でも、どっちでもいいんじゃないの」というように、2つの標記の差異を気にしない考え方が存在することは認識しています。ただ、この考え方によれば、越後長岡藩という標記に固執する必要はありません。
さて、考慮しなければならない事項として残っているのは、「長岡藩ではダメで、越後長岡藩という標記にすべきである!」という考え方です。この考え方をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご意見を頂けないでしょうか。 宜しくお願いします。--ぽこ2211 2007年1月7日 (日) 08:40 (UTC)
- 何なら高田藩も越後高田藩に移動してあげてもいいですよ。そうすれば無問題でしょう。他人の迷惑って奴も考えた方がいいですよ。記事書く以外のことに時間を多く割ける人ばっかりじゃないんですからね。--61.213.75.135 2007年1月7日 (日) 09:01 (UTC)
高田藩の移動のことや時間のこと等の話は、他の場所に譲るとして。。。ここは、長岡藩のことについて議論する場所であると認識しております。 引き続き、「長岡藩ではダメで、越後長岡藩という標記にすべきである!」という考え方につきまして、ご意見をお願いします。--ぽこ2211 2007年1月7日 (日) 10:06 (UTC)
- 「いまさらメンドクサイ」ってことでしょうね。それよりもあなたが利用者ページで書かれたことについて説明するのが先でしょう。ちなみにGoogleで「越後長岡藩」で検索した結果、かなりのページがひっかかることをお伝えしておきますね(それに対し「山城長岡藩」ではあまりひっかかりませんでした)。--61.213.75.135 2007年1月7日 (日) 10:16 (UTC)
- 越後長岡藩、長岡藩、どちらかが正しくて、どちらかが絶対ダメということはないと思います。しかし遺漏なく他のページを再編集・修正するとなると膨大な作業になります。私は自分の先祖の多くが、越後長岡藩士でありますが、ぼこ211さんが利用者ページで述べている越後長岡藩と云う呼称が差別的だという話しは聞いたことがありません。越後長岡藩と云う呼称は差別的であるとする主張する出典及び、その理由をお教え下さると参考になります。賛否はそれかれでも遅くないような気がします。--鉄三郎 2007年1月7日 (日) 12:30 (UTC)
- とりあえず落ち着きましょう。私も、長岡でも越後長岡でも問題ないと思います。国名+藩名で呼ぶのはごく普通のことですし、わざわざ変更する理由がないと思います。考慮すべきなのは、「越後長岡藩にすべきであるという意見」ではなく、「越後長岡藩から長岡藩に変更する理由」ではないでしょうか?納得できる理由があれば変更に賛成します
--Jinnsg 2007年1月7日 (日) 19:36 (UTC)
- 私は主著者の一人です。豊後地域の人々にとっては、高田藩とは、わざわざ断らなくても豊後高田藩を指し、越後地域の人々にとっては、高田藩と言えば、越後高田藩を指すのだと思います。同様に長岡藩も、越後地域の人々からすれば、わざわざ断らなくても長岡藩とは、越後長岡藩を指し、山城地域の人々にとっては、山城長岡藩を指すのでしょう。もっとも山城長岡藩は、存続した期間が比較的短いので、地元の人々にもなじみが薄く、長岡藩と言えば、やはり越後国に置かれた長岡藩でしょう。しかし、このウィキペディアは、全国版であり、そして全世界にも供されているものです。そしてなにより網羅的な百科辞典です。将来的には翻訳版の越後長岡藩のページも出来る可能性があります。この観点から、長岡藩より、越後長岡藩の標記のほうが優れていると考えます。長岡藩標記が絶対にダメであるとか、おかしいとまでは述べませんが、いまさら変更するとなると混乱を招くだけだと考えます。また越後長岡藩との呼称が差別的であるとは、私も聞いたことがありません。しかし、越後国は戊辰戦争・北越戦争のときに国内が官軍派(新政府派)と、佐幕派(旧幕府側)に真っ二つに割れて、内戦状態になった痛ましい歴史があります。明治維新期に官軍派の藩には、国名を冠さず、賊軍となった佐幕派の藩には、国名を冠して呼んだことが、越後国ではあったとする古老の伝説や、郷土史家の指摘があるようですが、それが現代の差別に当たるか否かは、はっきりしませんし、またこうした伝説・指摘が過去に本当に事実としてあったかどうか文献上・史料上も明らかではなく、私の管見では検証が不可能です。検証できるのであればご教示をお願いします。結論として越後長岡藩の標記のままで良いと思います。--219.120.30.142 2007年1月9日 (火) 00:42 (UTC)