野瀬氏
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越後長岡藩重臣野瀬氏(能勢氏)(えちごながおかはんじゅうしん のせし・(のせし))は、初代越後長岡藩主・牧野忠成の父であった牧野新次郎康成と、兄弟分の契りを結んでいた由緒を持つ同藩における客人分連綿に差し置かれた特権的な上級家臣、及びその一族。
[編集] 沿革・出自
能勢氏も槙(真木)氏と同様に、室町・戦国期の牧野氏(古白・保成等)股肱の宿老(あるいは寄騎)である。
多田源氏を出自とする能勢氏は元来、三河吉田(今橋)城主牧野氏の寄騎の武将であった。
室町将軍家番衆の摂津・能勢氏が、初代長岡藩主・牧野忠成の高祖父(諸説有り)にあたる牧野古白(成時、田蔵左衛門尉、利成とも)と、連歌などで交流があり、その一族、能勢丹波守信景が今橋の寄騎に招かれたと伝えられる。牧野古白は、宝飯郡牛窪にあったとされる長山一色城主(豊川市)から、今橋城主(豊橋市)に進出していた。
その当時の動静については、牛久保城、及び『室町・戦国時代の牧野氏・真木氏・能勢氏』などを併せて参照されたい。
松平清康に敗れ、今橋城落城の節には、享禄2年(1529年)5月28日に、初代の能勢丹波守討ち死とも云う。牛窪記には野瀬氏とあり。その子孫は、牛窪城主牧野家に属して、忠節を尽くしたが、永禄9年(1566年)牧野氏が徳川家康と和睦すると、二代目の能勢丹波守は、牧野家の可令(家令)として諸士を把握する。三代目の能勢丹波守(=能勢惣左衛門)は、三河を離れ、当時若狭国敦賀城に所在した足利義昭(後の室町15代将軍、将軍家は能勢氏にとっての旧主)に属して、明智光秀配下となった。本能寺の変に続く山崎の合戦で敗北すると、丹波・備前などに潜居し備前にて徳川家仕官を望む。これを許されて関ヶ原の合戦に参陣、功により直参となったという伝承がある。
二代目の能勢丹波守の次男能勢七郎右衛門正信は、なお牧野氏家臣団に残っていたが、上州大胡在城時代(1590年~1618年)に、槙三郎左衛門と馬の儀にて喧嘩となり出奔した。
能勢氏や真木氏の出奔は、武功派家臣が力を失い、藩主に権力が集中していく過程を意味している。
能勢藤七重正は、やはり真木(槙)氏と同様に、家禄・家格に不満があり高崎に出奔していたとされる。
[編集] 越後長岡藩士として
上州高崎に隠棲していた能勢氏は、真木(槙)氏と同様に、長岡藩文書は、あらためて三顧の礼を以て、長岡藩主・牧野氏に迎えられたとするが、総領の能勢藤七重正が長岡に帰参した後は、やはり槙氏と同様に冷遇された。
但し、帰参した能勢氏は槙氏と異なり総領家ではない。総領家は前述のように、幕臣となっていた。
能勢氏は、総領家の家禄600石の内、200石を分与して、分家を分出していたため四百石となっていた。 さらに五十石の分家を分出して、能勢藤七正保のときには350石まで家禄を減らしたが、この分家には嗣子なく、後に家禄は本家に返納されたものと推察される。
200石で分出された能勢七郎右衛門の弟・兵右衛門重信は、初代長岡藩主・牧野忠成が死すにあたって、願い出により殉死を命じられた。その家督をついだ二代目には、父の殉死の褒美のためか230石が与えられた。3代目のときに200石となったが、貞享2年(1685年)不正行為が発覚して改易となった。後に先祖の筋目のある者を帰参させ30石で家名再興が許されやがて100石となった。その直系子孫は、20石・その後一時、家格以上の役職に就任したためか、40石加増され、合計160石となり、世襲家禄を120石とした。この家を能勢右仲家または、能勢源五右衛門家などと呼び、能勢姓の長岡藩士としては、二番目の家格であった。
享保5年(1720年)に、能勢源五右衛門家の次男の能勢玄格(玄伯とあるのは誤り)は、10人扶持で召し出された後に、段々立身・加増されて130石となった。その家督を相続した能勢丈元は自殺をしたため断絶となるも、70石・大組入りで家名再興となった。
孫の代に10石減知となり60石でありながら、大組入りを許されていた。
このほか能勢源五右衛門家には微禄の末家1戸がある。
一方、総領家の能勢藤七重正の家督を相続した正保は、藩主の嫡子・養育係の座をめぐる争いで、謙譲の美徳が評価され、現役のときと、隠居して寄合組に列しているときの2回に渡って、加増を受けた。分家の分出で、細っていた総領家の家禄が、旧に復して六百石となった。正保は、光成の守り役辞退後に、忠盛(=後の二代目忠成)の守り役に任命された。この逸話は長岡藩の美談として語り継がれた。
また総領家の能勢氏は、享保2年(1717年)第5代長岡藩主・牧野忠周の子供の養育係就任に伴いその庶子・能勢喜内が小姓として召し出された。新恩100石をたまわり別家を立てた。
能勢氏はこのように財政が厳しくなってきた江戸時代後期の享保年間に、2戸の別家を立て大組入りさせれることができた。 先法家の能勢氏は、末家の家禄まで累計すると、この頃にはおよそ950石余(総領家分は600石)であった。
長岡藩の支藩には、有力な能勢姓の藩士は存在しない。
また長岡藩には、先法家の能勢氏と異なる出自を持つ、儒者として召し出された能勢忠兵衛剛美を祖とする能勢彦之進家(100石級)と、近江国膳所藩士から移籍した野瀬氏(100石級)がある。