足利藤氏
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足利 藤氏(あしかが ふじうじ、? - 永禄9年(1566年)、在位1561年?~1562年?)は戦国時代の古河公方であるが、歴代公方には数えない。父は足利晴氏、母は簗田高助の娘。異母弟に足利義氏。幼名は幸千代王丸。関東管領上杉謙信(輝虎)によって古河公方に擁立されて、北条氏が擁立した義氏とは対立関係にあった。
藤氏は足利晴氏の長男であり、13代将軍足利義藤(後の義輝)の一字を名乗っている事からでも分かるように次代の古河公方として認められた存在であった。祖父・簗田高助は家中の親北条派の中心として、晴氏の後添えの正室に北条氏綱の娘・芳春院を迎え入れるように尽力した実力者であった。
ところが、次第に晴氏と北条氏の関係が悪化していき、ついには河越夜戦で北条氏康と戦って敗北してしまう。その後、氏康の圧迫で晴氏は隠退させられて、芳春院が生んだ足利義氏が次の古河公方に立てられた。1557年、藤氏は挙兵して古河御所奪還を試みるが失敗し、晴氏は幽閉され、藤氏も追放されてしまう。それでも、藤氏は簗田晴助(高助の子)や安房の里見義堯を頼って再起の機会を窺った。晴助らは越後に滞在中の関東管領上杉憲政と彼を助けていた長尾景虎(後の上杉謙信)に藤氏救援を依頼した。
1561年、憲政と前関白近衛前久を擁して10万の大軍で関東に出兵した長尾景虎は小田原城の攻略には失敗したものの、途中古河御所を占領して義氏を小田原に放逐するなど、関東の大半を制した。憲政から上杉の家名と関東管領の地位を譲られた「上杉輝虎(謙信)」(便宜上、以後は謙信とする)は、憲政・前久と相談して、義氏の古河公方就任を否認して関東管領の名において藤氏を晴氏(前年死去)の後継として古河公方とすることを決定した。これを佐竹氏・里見氏ら反北条氏の関東諸将も受け入れ、ここに古河公方が二人存在するという事態が生じたのである。
だが、謙信が越後に帰国すると、直ちに北条氏康が反撃を開始し、その年の10月には古河を奪還して、藤氏らは上総の多賀信家(蔵人・高明、里見氏家臣)の元へ逃れた。
その後も古河を巡っては、上杉派と北条派が争奪戦を繰り広げて、その度に藤氏は古河に入ったり上総に脱出したりを繰り返した。だが、1562年に北条軍が古河御所を攻略した際に逃げ遅れた藤氏は捕虜となって小田原に送られてしまう。
その後、藤氏の身柄は相模・伊豆を転々としたとされるが、1566年に北条氏康によって処刑されたと言われている。
古河公方・藤氏を失った事により、上杉謙信の関東経営は大打撃を受け、後に越相同盟が締結された時にも、唯一の古河公方となった足利義氏を擁立する北条氏康が上杉謙信に対して優位に交渉を進めていくのである。
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