転向
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転向(てんこう)
- 方向や方針、進路などを変えること。(例:野球からプロレスに転向、文系から理系に転向)
- 思想や政治的な主張・立場を変えること。(本項で記述)
- 台風が進路を西よりから北または東よりに変えること。(→転向 (気象))(例:台風第1号は転向し北東に進路を変えた)
転向(てんこう)とは、思想や政治的な主張・立場を変えること。特に日本で昭和初期の厳しい弾圧により、多くの人が共産主義、社会主義を放棄した現象を指す。
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[編集] 共産主義などからの転向
大正時代後期に社会主義思想が高揚し、1922年に日本共産党が非合法のうちに結成されたが、政府は普通選挙の実施と引き換えに治安維持法(1925年)を制定してこれらの動きに対抗した。第1回普通選挙の後、三・一五事件(1928年)、四・一六事件(1929年)と共産主義者らの一斉検挙が行われた。
1933年6月、日本共産党委員長の佐野学は、鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出した。これはソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動を行う、という内容であった。この声明は世間や獄中にあった運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させた。
拷問による転向もあったが、警察官や検事に「故郷の両親は泣いているぞ」などと情に訴えられ、説得された者もいた。また、日本共産党などの活動は大衆との結びつきが薄く、主に知識人層を中心としたものであったため、活動が大衆の生活や要求と遊離していることに悩み、運動から離れた者も多かった。
昭和前期に治安維持法違反容疑で検挙された者は7万人を超えるといわれるが、多くの者が転向の誓約書を書いた。日本共産党でも最後まで主義を貫いたのは徳田球一・宮本顕治らごく少数者(終戦後まで残った者は日本共産党の幹部になった)であり、ほとんどの者が共産主義を放棄し、転向した。(中には圧迫に耐えかねた偽装転向といってよいものも含まれるが)
当時の日本で主に国家社会主義への転向者が多かった背景には、統制経済政策に代表されるような全体主義という点では、共産主義も国家総動員体制も共通項が存在したためといえる。また、転向したものの中には、満洲国に理想の新天地を求めて、大陸に渡ったものも多い。もとプロレタリア作家の山田清三郎は、満洲で文学運動の一翼を担った。
戦後には、佐野学のように反共主義の立場を維持したものもいたが、過去を反省してふたたび日本社会党や日本共産党にはいり、社会進歩の運動に参加した者も多い。逆に、そのときに過去を隠していたとして批判をうけたものもいる。
[編集] 転向文学
とくに、文学の分野では転向問題をテーマにした作品が多くかかれ、村山知義の『白夜』、中野重治の『村の家』などが知られ、島木健作の小説『生活の探求』(1937年)は当時、ベストセラーになるほどであった。この中では、農民運動に参加し、検挙されてから実際の運動から離脱して文学の道に向かった島木と、文学者としてプロレタリア文学運動への弾圧によって転向した村山・中野とは位相の差があるのだが、当時はひとしなみに転向文学として扱われた。
[編集] 近代日本思想史上の現象として
近代日本思想史上に広く見られた現象として転向を捉えることもある。例えば、幕末に攘夷を叫んでいた倒幕側の指導者が政権に就くと、一転して欧化政策を取るようになった。思想家でよく知られる例では、加藤弘之が啓蒙主義の天賦人権論から国権主義的な社会進化論に主張を変えたことや、三国干渉に衝撃を受けた徳富蘇峰が平民主義から国家主義に転じたことなどがある。第2次世界大戦後には、日本全体で軍国主義から民主主義への集団転向が行われた、とも言える。また、1960年の安保闘争や平和運動で活躍した社会学者の清水幾太郎が『日本よ国家たれ』(1980年)で日本の核武装化を主張し、人々を驚かせたこともあった。こうした現象から、西欧で流行した思想に次々と飛びついた日本人(特に知識人)の底の浅さが指摘されることもある。
最近では、左翼運動家から保守論客となった西部邁、日本共産党員であったが主張を変え脱退した藤岡信勝や渡邉恒雄らが転向の事例として挙げられている。西部に対しても反米、反自由主義という点においては左翼や社会主義者と変わりがないという批判がある。
[編集] 文献
- 思想の科学研究会編『共同研究 転向』上中下復刊ドットコムのリクエスト投票