共産主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
共産主義 |
共産主義の歴史 共産主義の種類 共産党 社会主義国 人物 |
edit this box |
共産主義(きょうさんしゅぎ、英Communism)とは、財産の共有を目指す思想。一般には生産手段の私的所有を社会的所有に変えることを理想とするマルクスとエンゲルスの思想を指す語として用いられるが、正しくはマルクスとエンゲルスによって作られた思想ではない。歴史上、現在使われる文脈とほぼ同じ意味で“共産主義”という語を用いた最初の人物はフランソワ・ノエル・バブーフである。この語の由来はラテン語の“communis”であり、歴史的に最も早い使用例はシルヴィ父子によって書かれた『理性の書』(1706年)である。その後、フランスにおいて社会主義、共産主義が20世紀に使われたような文脈で初めて使用された。 19世紀・フランスにおける共産主義思想をドイツに紹介した人物はローレンツ・フォン・シュタインであった。マルクスはシュタインの著作である『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(1842年)を読み、ここから自身の思想を展開することになる。エンゲルスと出会う前のマルクスは共産主義に対して否定的ないし消極的な態度をとりつづけていた。マルクスが共産主義思想に肯定的・積極的評価を示すようになるのは、シュタインの著作に触れて以降、エンゲルスに出会った以降のことであり、その最初が『経済学・哲学草稿』(1844年)である。しかしながらこの著作においてもマルクスは共産主義社会を理想の社会とすることに一定の留保をつけている。なおこの思想に基づく体制も共産主義と呼ばれている。
類似の概念として社会主義がある。思想史的な系譜は異なるが、マルクス、エンゲルス以降は厳密に区別されない。マルクス主義を採用した政党が社会民主党と名乗ったり社会党と名乗ったりしたためである。
目次 |
[編集] マルクス、エンゲルスの共産主義論
1848年にマルクスとエンゲルスが発表したとされる『共産党宣言』は、資本主義社会をブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立によって特徴づけ、ブルジョア的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を共産主義者の目的として掲げた。この革命によって階級対立は解消し、国家権力は死滅へと向かい、「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」ような社会が実現するものとした。また、「共産主義者は、これまでの一切の社会秩序が暴力的に転覆されることによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する」、と暴力革命を主張した。しかしながら『共産党宣言』の成立の経緯は1847年秋に、ドイツ手工業者を中心とする秘密結社の共産主義者同盟の幹部(主にカール・シャッパー)が、同盟員であったマルクスとエンゲルスに新組織の活動に見合うように起草を委任した綱領文書なのであり、その観点から言えば『共産党宣言』はマルクスの著作でもなく、エンゲルスとの共著でもない(石塚正英氏の研究による。この見解は2000年に弘文堂で出版された『新マルクス学事典』においても踏襲されており、一般的になっている)。
1875年、マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。また、資本主義社会から共産主義社会への過渡期における国家をプロレタリアート独裁とした。
マルクスが『経済学批判』の序言で記した唯物史観の公式では、生産力の発展にとって生産関係が桎梏になると社会革命が始まる。低い段階から高い段階への移行も生産力の発展が条件となる。
[編集] 運動の展開
1880年代から1890年代にかけてドイツ社会民主党が急速に勢力を拡大し、第二インターナショナルの中心的政党となった。マルクス主義者のカール・カウツキーが同党の中心的理論家として活躍し、マルクス主義の権威も高まった。
マルクス主義はゲオルギー・プレハーノフによってロシアにも持ち込まれ、ロシア社会民主労働党のイデオロギーとなる。同党の分派であるボリシェヴィキは第一次世界大戦への対応をめぐってドイツ社会民主党と決別し、ロシア革命後の1919年に党名を共産党と変更した。それ以降、社会民主主義と共産主義は明確に区別されるようになった。
[編集] 体制としての成立
1917年10月、ロシアでボリシェヴィキが武装蜂起を成功させ、権力を獲得した。これは共産主義者が権力を獲得した初めての例だったため、ボリシェヴィキは世界の共産主義運動に決定的な影響を及ぼすことになった。第二次世界大戦後にはその影響の下に東ヨーロッパや中国でも共産党政権が誕生した。
これらの「共産主義を目指した国家」はいずれも、資本主義における科学技術の指数関数的発達や市場経済、生産手段の成熟を待つことなく、共産主義社会建設の前提・暫定措置としてソ連型社会主義に移行したまま、そこに留まってしまった。共産主義社会はおろか、社会主義の実現にも成功したとは言えず、その中で、生産手段の私的所有の廃止・労働機会の官有による権力の集中は当初の目的を外れ、単に資本家に代わって、その国で共産党を名乗る政党が生産手段を独占するだけに終わった。しかし、バクーニンが「マルクスのいう共産主義体制は結局少数者による支配体制になるだろう」と言った様にそれが共産主義の本質であるという見方もある。また政治的にも、これらの国々は議会制度が十分に成熟・機能していない状態から直ちに共産主義を目指した為、共産党による一党独裁制に陥った。特に、ソ連のスターリン執政期や中国の毛沢東執政期に至っては、自分の政策に反対する勢力や同僚を、政治的にまたは物理的に抹殺するに止まらず、政策に反発する市民や全く無関係・無関心な人民までをも大量に虐殺、餓死させる等、歴史的におぞましい全体主義体制を創り出した。スターリンや毛沢東の独裁は、マルクスやレーニンが描いた「共産主義」からは大きくかけ離れているが、この歴史的事実は、共産主義に対する認識を大きく歪ませてしまった。
これらの例については、社会の実情を十分に把握せずに先ず資本主義が発展していない後進国から社会主義化を押し進め、市場や生産手段の成熟を待たず強引に政治構造のみを変換しようとしたのは根底から間違った方法であり、マルクス本来の共産主義からかけ離れた存在だったとして、(21世紀以降)将来的には本来あるべき共産主義への移行が有り得ると考える人もいる。これに対して、十分に成熟して議会制度の下に繁栄している資本主義の国には、マルクスの時代に指摘されていた資本主義の問題点である過酷な労働環境は解消され福祉が発達しているのであるから、成熟した資本主義から真の共産主義体制に移行するというのは非現実的だと考える人もいる。あるいは、現時点では一見成熟したように見える資本主義もまだまだ社会的矛盾を多く抱えており、問題点を解決した資本主義の究極形態が共産主義であるとして、一度に変革するのではなく、漸進的に行われる成長と改善によって(社会民主主義、修正資本主義等)、「成熟した資本主義」が共産主義に変化していくという考え方もある。
20世紀の共産主義を標榜した国家の多くは、「共産主義によって、皆が等しく自由に、豊かになる」と唱えながら「全体主義によって、皆が等しく束縛、貧しくなる」という最悪の結果をもたらした。これらの事実は、共産主義を目指す国々が、歴史に刻む「負の遺産」である。これらの「負の遺産」を乗り越える事が、これからの共産主義を目指すという思想の要になってくるであろう。
[編集] 思想の変質
1920年代にソ連でレーニンに代わって指導者となったスターリンは、マルクス、エンゲルスからレーニンへと受け継がれた思想をソ連の現実に合わせる形で修正した。
まず、世界革命を放棄し、ソ連だけでも社会主義を実現することが可能だと主張した(一国社会主義論)。そして1936年にはソ連において社会主義が実現されたと宣言した。
また、共産主義が実現すれば国家権力は死滅する、という国家死滅論を放棄し、共産主義へと向かえば向かうほどブルジョアジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない、とした。
労働者は祖国を持たない、という『共産党宣言』以来の国際主義に反し、第二次世界大戦時にはロシア人の愛国心に訴えかけて戦争を遂行した。
[編集] 運動の多様化
ソ連の現実があまりにもひどかったため、共産主義運動の内部からも反発が生まれた。
最初に大きな影響を及ぼしたのはソ連共産党の権力闘争に敗れたトロツキーを中心とする運動である。スターリンの一国社会主義論に反対して世界革命の目標を掲げつづけ、1938年には第四インターナショナルが創設された。
第二次世界大戦後のスターリン批判や1956年のハンガリー動乱をきっかけとして、欧米や日本で新左翼またはニューレフトと呼ばれる潮流が生まれた。この潮流は1960年代の世界的な学生運動の高揚に大きな役割を果たした。
[編集] 体制の破綻と延命の試み
ソ連や東欧の共産党政権は、基本的人権や民主主義を軽視したために国民の支持を得られず、経済の発展において西側諸国をしのぐこともできなかった。その結果、東ヨーロッパの共産党政権は1989年に次々と崩壊し、ソ連も1991年に解体した。
中国の共産党政権は、毛沢東が主導した大躍進政策や文化大革命によって人的、物的に多大な損失を経験した後、1970年代後半から鄧小平の指導で改革開放を進めている。これは一言で言えば資本主義化の政策であって、共産党の権力が維持されているとはいえ近い将来に共産主義への道が再び取られる見込みはない。
北朝鮮はソ連・東欧の崩壊に伴う交易環境の悪化にもかかわらず体制を維持したが、深刻な飢餓によって数十万から数百万の死者を出した。冷戦終結後に最大の援助国ソ連を失ったキューバはその後も米国の経済封鎖が解かれていないため国内の経済は停滞しており、都市部での有機農法での食料増産や省エネルギー政策である程度の改善がみられるものの、最近増加傾向にある中南米の友好国からの経済援助無しでは立ちゆかない状態である。しかし、ソ連崩壊後は逆にアメリカ合衆国の一極集中支配に対する反発を生んだ。
冷戦期は共産主義に対する脅威から西側諸国は社会保障を充実する等労働者の権利を認めざるを得なかったが、冷戦の終結と東側陣営の崩壊は再び資本主義国の労働者を過酷な境遇に追い立てている。それはアメリカや日本等新自由主義経済の国々で著しい。その為、逆に21世紀を迎えた今日こそ共産主義革命の好機だと共産主義者は主張する。インドやイタリアなどでは選挙によって民主的に共産主義の自治体が誕生する事例が相次いだ。これらの国々では嘗ての共産主義の認識にとらわれず、その国に合った独自の国作りを目指している。
[編集] 理論的批判
1870年代にウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、カール・メンガー、レオン・ワルラスの3人の経済学者が、ほぼ同時に、且つ独立に限界効用理論を基礎にした経済学の体系を樹立し、古典派経済学に対して近代経済学を創始した。近代経済学では、希少な財を配分する事に於ける市場の優位性が証明された。また、価格を説明する為の理論として労働価値説は、否定されるに至った。アナリティカル・マルキシズムでは、プロレタリアートの搾取を説明するのに労働価値説は使用しない。
1920年代から1930年代にかけて、合理的経済計算と効率的資源配分に関する社会主義経済の存立可能性に付いて社会主義経済計算論争が行われ、オスカル・ランゲがワルラスの一般均衡理論に基づく社会主義経済を構想し資本主義経済に対する優位性を主張した。ランゲの構想に着想を得て、東欧諸国では生産手段の公的所有に基づく市場経済の導入が行われたが、いずれも現存する資本主義国家の経済を上回る効果を生まなかった。
1990年代になりソ連・東欧の失敗を踏まえて、ジョン・ローマーは現在の資本主義とほぼ同じだが、企業の株式は、国民に平等に配分されたクーポンによってだけ購入出来るというような経済システムをランゲの構想の延長線上として提起した。このローマーの経済モデルも現実の経済システムの様な活力を持ち得ないという批判が多くの自由主義者から起こっている。
[編集] 「日本=共産主義国家」論
日本は「世界で唯一成功した社会主義国家」と言われることがある。議会制民主主義を敷きながら、敗戦による貧困から高度成長を遂げると同時に、護送船団方式に象徴される高い横並び意識で金融システムやインフラを充実させ、且つ税収を分配して全国民に最低限の生活を保障した。これは、いわゆる旧東側など社会主義を正面から標榜していた国では達成し得なかった目標の一つである「皆が等しく豊かになる」というコンセプトを事実上達成している、という意味で、「唯一成功した社会主義国家」と言うものである。背景として、マルクス主義を標榜する政党が多数派を形成することはなかったものの、戦前には、尾崎秀実・西園寺公一らスパイや風見章・勝間田清一・笠信太郎ら戦後を代表する左翼が居た昭和研究会、近衛文麿首相を「国体の衣を着けたる共産主義」と言わしめ、企画院事件などで弾圧された革新官僚、満鉄調査部の「満鉄マルクス主義」など、程度の違いはあれマルクス主義の影響を受けた集団が幅を利かせ、戦後もGHQの指令によってこれらの関係者が政財官学界に復帰し、指令が解除された後も日本の講壇ではマルクス経済学の手法が主流に位置し、その教育を受けた新卒者が各界で登用される構造になった点が指摘される。
このような主張の多くは新自由主義の観点から戦後の日本を否定的に描き出そうとしてなされるものである。しかし本来の共産主義の思想に照らして考えるなら、日本で私的所有が廃止されたことはなく、階級対立が解消されたこともない。社会主義として批判されているのは正確には社会民主主義であり、労働者の権利や社会福祉だと言える。
もっとも、そのような観点に立ったとしても、戦後の日本では国民の租税負担率が軽く、また公務員の数も-一般の認識とは逆に-先進国としては比較的少ない状態が現在に至るまで一貫して続いている。日本が社会民主主義的社会であったとするならば、それは累進課税に代表される個人所得の再分配という点以外、確たる理由は見あたらない。その点を考慮するならば、社会民主主義的な意味として理解したとしても「世界で唯一成功した社会主義国家」というフレーズに妥当性があるかどうかは議論の余地がある。
よって、このフレーズは、保守的な立場からの政治的な意図が過分に含まれている点に注意が必要であろう。
[編集] 進化論との関係
共産主義を自然科学の進化論と関連付けるのは可能である。現実にマルクスはチャールズ・ダーウィンに進化論が唯物史観の着想に寄与したとして資本論の第一巻を献本している。
マルクスは社会進化の熱狂的な信奉者であり、それは数々のメモの類や書簡で既に証明されている。マルクスがプロレタリアを革命の主体に置いたのは繁殖の問題意識から来ているという説[要出典]もある。しかし、あくまで資本主義の存続を唱う社会進化論に対して、資本主義自体が淘汰されるとマルクスは説いた。これはマルクスの問題提起がより根本的なものであったからと考えられている。
[編集] 基本文献
- 『資本論』
- 『ドイツ・イデオロギー』
- 『共産党宣言』
- 『ゴータ綱領批判』
[編集] 参考文献
- 高増明・松井暁編『アナリティカル・マルキシズム』(ナカニシヤ書店、1999年)
- ジョン・E・ローマー(伊藤誠訳)『これからの社会主義』(青木書店、1997年)
- 的場昭弘他編『新マルクス学事典』(弘文堂、2000年)
[編集] 関連項目