ユサール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユサール (フザール, ハサー, 英:Hussar, 仏:Hussard, 独:Husar)は、近世の軍隊における騎兵科の兵職の一つ。驃騎兵という訳語もある。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 起源
1389年のコソボの戦いで敗北しハンガリーに逃れたセルビア人貴族が、ユサールの起源であるといわれている。その後ユサール騎兵隊として編成された彼らは、ハンガリー王マーチャーシュ・コルヴィヌスの治世の間オスマン帝国の精鋭騎兵と互角に戦い、その勇猛さを内外に知らしめた。王の死後、オスマン帝国の圧力に押される形で、ユサールの多くは傭兵としてオーストリアなどの周辺の国へ散らばっていった。
[編集] 近世
軽騎兵の存在しなかった当時の西ヨーロッパでは、ユサール騎兵は略奪を行う野蛮な連中であるとされてきた。(こうした認識はハンガリー騎兵だけでなく、東欧のコサック騎兵たちや北欧のフィンランド人騎兵(ハカッペル)に対しても同じであった。)しかしこれらの軽騎兵は、軍隊においてすぐれた斥候であり、偵察や追撃、強襲に長けた軽快な騎兵だったのである。そのため西ヨーロッパの各国でも次第に軽騎兵を傭兵に頼るのではなく、正規部隊として編成するようになっていった。フランスではルイ14世の治世の間に、ハンガリー騎兵を基にして初の軽騎兵隊が編成され、それ以降フランスの騎兵隊には必ず軽騎兵が含まれるようになった。
オーストリア軍の散兵に悩まされたプロイセンのフリードリヒ大王もまた、軽騎兵の運用に熱心であった。オーストリア継承戦争において敵の散兵に対し、ユサールを広く効果的に使用したのである。部隊の前方に展開し、偵察や敵の散兵線の破壊を行うユサールは、非常に有効な兵種であった。
[編集] ポーランド騎兵
当時リトアニア大公国と同君連合を組んでいたポーランド王国では、それまでの中世式の槍騎兵に代わって、ポーランド人、リトアニア人からなる重装備のユサール騎兵を編成した。本国ハンガリーのユサールが、甲冑を脱ぎ捨て軽装になっていくのに対し、ポーランドのユサールたちは金属製の甲冑を着込み、豹の皮や鳥の羽で着飾り、盾を捨て槍で武装した独特な騎兵隊へと発展した。この独特なユサール部隊は、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで非常に強力な騎兵隊として知られ、当時のポーランド王国の黄金時代を作り上げのである。
[編集] ナポレオン時代
東方を起源とするユサールは、ヨーロッパの部隊において特徴的な服装をしていた。ドルマン(Dolman)と呼ばれる肋骨状の糸飾りのついたジャケット(肋骨服)を着て、その上にペリース(Pelisse)と呼ばれるジャケット風のマントを左肩にだけ掛けていた。頭にはカルパック帽と呼ばれる毛皮の丸帽子や、シャコー帽と呼ばれる円筒状の帽子を被り、湾曲した独特のサーベルを携帯していた。
これらユサールの独特な服装は、当時の東洋趣味と相まって、軍民問わず広く取り入れられるようになった。また異国風の優雅で華麗なユサールたちの衣装は、戦場で自身の存在を際立たせるだけでなく、女性たちの心を掴むのにも役立ったという。
中でもユサールたちがもっとも華やかに着飾ったのは、ナポレオン戦争の頃である。この当時もユサールは非常に優秀な騎兵であり、前方での敵との小競り合いや、偵察、追撃などに有効に使用された。神出鬼没で情け容赦の無いユサールたちは、敵からは悪名高い存在であった。
[編集] 近代以降
徐々に騎兵が戦場から姿を消していく近代以降も、ユサールは軽騎兵の代表として各国の部隊に残り続けた。この頃のユサールは以前のような派手な装飾はせず、むしろ偵察用に地味な服装をしていたという。また使用する馬も安価で、訓練もさほど必要なく、安上がりな騎兵であった。
そののち騎兵が戦場から姿を消した後も、他の騎兵職と同じように、ユサールもまた名誉呼称などとして部隊名などにその名を残している。かつてユサールが担った役割から、偵察部隊などに使われることが多いようだ。
[編集] 関連項目