北陸道
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北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)
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[編集] 行政区画としての北陸道
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畿内から北に伸びて、本州日本海側の中部を総めた行政区画であった。明治以後では「北陸四県」と呼ばれる地方である。
以下の順で並べることが多い。
[編集] 道路としての北陸道
古代の北陸地方が「越国」という地方王国を形成した歴史や、畿内から北に伸びる路線である事から、「越路」「北国街道」「北国路」とも呼ばれた。
畿内から北東に進んで、鳥居本(現在の彦根市鳥居本)または番場(米原)で中山道(律令時代の東山道)と分岐し、北上して日本海側を横断し、越後国へ至った。
[編集] 律令時代
- 律令時代の道路としての北陸道は、畿内と日本海側中部を結ぶ路線であった。令制国の国府を結ぶ官道であり、小路とされた。
- 7世紀半ばに、新潟市街地の一角である沼垂の辺りに渟足柵が築かれると、渟足柵が北陸道の北限となった。後に延伸されて、鼠ヶ関が北限となった。
- 10世紀初頭になると、造船、操船技術が発達を見たことから、物資運搬の難所となる山岳区間を避け、琵琶湖や敦賀から日本海沿岸に向けた航路も併用されるようになった。
[編集] 江戸時代
江戸時代になると、北陸道は、善光寺へ参拝する路線として整備された。江戸時代の北国街道は、追分宿から直江津を経て、直江津から日本海沿いに京都へ向かう道路として整備された。この内、狭義の北国街道は、追分宿から直江津までの道路を指す事もあり、これは善光寺街道とも呼ばれた。
[編集] 明治時代以後
幕末(1859年)に、新潟が開港五大港の一つになると、新潟が北陸地方と東北地方を結ぶ交通網の接点として盛え始めた。明治になると、道路・鉄道といった陸路の整備が進んだために、北陸道は、再び日本海沿岸の交通網の主演となった。
現在では、国道8号や北陸自動車道が、律令時代の北陸道を継承している。国道8号は、新潟(万代橋)から米原を経て京都に至る路線となっている。
但し、鉄道の北陸本線は、新潟駅を東端とせず、直江津駅を東端とした。これは、高崎から直江津にかけての北国街道沿いに、信越本線が優先的に建設されたためである。
戦後の1972年に、新潟県出身の田中角栄が政権に就くと、「太平洋ベルト地帯との格差の是正」を掲げたために、高速道路の北陸自動車道も建設された。これは国道8号と同じく、ほぼ古来の北陸道に沿っている。
現在の「北陸道」は、律令時代の北陸道に沿った道路を指す事が通例であるが、狭義では北陸自動車道の略称として用いられる事もある。
[編集] 関連項目
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