酒井忠哲
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酒井 忠哲(さかい ただあきら)は、上野伊勢崎藩の第4代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 明和5年12月24日(1769年1月31日) | |||
死没 | 文政2年7月19日(1819年9月8日) | |||
別名 | 春司、与八郎(幼名) | |||
戒名 | 天真院 | |||
官位 | 従五位下、下野守 | |||
藩 | 上野伊勢崎藩主 | |||
氏族 | 酒井氏 | |||
父母 | 父:酒井忠温、母:鈴木氏 | |||
兄弟 | 酒井忠哲、酒井忠輔 | |||
妻 | 正室:木下利忠の娘・お品 | |||
子 | 2男1女(酒井忠寧、娘:(細川利愛室) |
明和5年(1768年)12月24日(明和6年(1769年)とも)、第3代藩主・忠温の子として生まれる。天明7年(1787年)3月9日、父の隠居により後を継いで叙任する。父に倣った藩政を行ない、民政や文治に尽力した。特に文治においては関重嶷に命じて「伊勢崎風土記」を編纂させている。文化2年(1805年)7月5日、子の忠寧に家督を譲って隠居する。その忠寧は文化14年(1817年)に早世するが、自らは孫の酒井忠良の時代である文政2年(1819年)7月19日に死去した。享年52。
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