伊勢崎藩
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伊勢崎藩(いせさきはん)は、上野国に存在した藩の一つ。藩庁は伊勢崎城(一時、陣屋 群馬県伊勢崎市曲輪町)。
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[編集] 藩史
伊勢崎藩は、志摩国鳥羽藩・稲垣氏の祖・稲垣長茂が加増によって1万石を領したことに始まる。子の稲垣重綱のときに、越後国藤井へ移封。前橋藩主の酒井重忠の嫡男で、大老になったことで有名な酒井忠世が5万2,000石を与えられて伊勢崎に移るが、前橋藩を継いだとき、伊勢崎藩領はそのまま前橋藩領に組み込まれた。
忠世は寛永13年(1636年)に死去。同年のうちに忠世の後を継いだ嫡子・酒井忠行も死去した。このため、酒井氏の家督は忠行の嫡男・酒井忠清が継ぐこととなる。このとき、忠清の弟・酒井忠能は兄より2万2,500石を分与されたため、伊勢崎藩主となった。しかし寛文2年(1662年)6月に忠能は信濃小諸藩に移封され、伊勢崎藩は廃藩となる。
天和元年(1681年)、「下馬将軍」と謳われて第4代将軍・徳川家綱のもとで権勢を振るった酒井忠清の次男・酒井忠寛が兄・酒井忠挙より2万石を分与され、前橋藩の支藩的な性格を帯びて、伊勢崎藩が再成立する。その後、前橋藩の酒井氏は姫路藩に移封となったため、この伊勢崎藩は姫路藩の支藩的存在となった。ちなみに幕末期、最後の姫路藩主となった酒井忠邦は、第7代藩主・酒井忠恒の実子である。
なお、藩政においては初代藩主・酒井忠寛の時代に確立する。その後、藩は財政難に陥ったが、第3代藩主・酒井忠温の時代に行なわれた藩政改革により再建された。なお、この忠温時代より行なわれた文治政策により、その後の伊勢崎藩は文学的発展を遂げてゆくこととなる。
幕末期においては、本家である姫路藩が佐幕派であったため、新政府の警戒を受けたが、第8代藩主・酒井忠強は自ら謹慎することで恭順の意を示した。その後、明治2年(1869年)6月の版籍奉還により忠強の後を継いだ酒井忠彰は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により、伊勢崎藩は廃藩となる。
藩主家である酒井氏は、明治17年(1884年)に子爵となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 稲垣(いながき)家
1万石。譜代。
[編集] 酒井(さかい)家
5万2,000石。譜代。
- 忠世(ただよ)〔従四位下。雅楽頭。侍従〕
[編集] 酒井(さかい)家
2万2,500石。譜代。
- 忠能(ただよし)〔従五位下。日向守〕
[編集] 酒井(さかい)家
2万石。譜代。
- 忠寛(ただひろ)〔従五位下。下野守〕
- 忠告(ただつぐ)〔従五位下。下野守〕
- 忠温(ただはる)〔従五位下。駿河守〕
- 忠哲(ただあきら)〔従五位下。下野守〕
- 忠寧(ただよし)〔従五位下。信濃守〕
- 忠良(ただかた)〔従五位下。伊賀守〕
- 忠恒(ただつね)〔従五位下。志摩守〕
- 忠強(ただつよ)〔正五位。下野守〕
- 忠彰(ただあき)〔正四位。下野守〕