酒井忠温 (伊勢崎藩主)
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酒井 忠温(さかい ただはる)は、江戸時代の大名。上野伊勢崎藩の第3代藩主。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 元文2年5月1日(1737年5月30日) | |||
死没 | 寛政13年1月5日(1801年2月17日) | |||
別名 | 三郎助(幼名) | |||
諡号 | 牛眠 | |||
戒名 | 嶋高院殿 | |||
官位 | 従五位下、駿河守 | |||
藩 | 上野伊勢崎藩主 | |||
氏族 | 酒井氏 | |||
父母 | 父:酒井忠恭、母:石原氏 養父:酒井忠告 |
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兄弟 | 酒井忠仰、酒井忠得、酒井忠宜、 酒井忠温 |
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妻 | 正室:酒井忠檮の養女 | |||
子 | 3男2女(酒井忠哲、酒井忠輔、 娘:(村越成庸室、娘(内藤信義室)) |
元文2年(1737年)5月1日、上野前橋藩主・酒井忠恭の四男として生まれる。宝暦元年(1751年)に叙任し、宝暦13年(1763年)6月27日に忠告が隠居したため、その養子となって後を継いだ。天明3年(1783年)の浅間山噴火で大被害を受け、藩財政が破綻寸前となったが、関当義を登用し、彼の経費節減政策などで財政再建に成功している。また、藩校・学習堂を創設するなどして文治の発展に尽くし、藩政改革に成功を収めた。
天明7年(1787年)3月9日、子の忠哲に家督を譲って隠居し、寛政13年(1801年)1月5日に死去。享年65。墓所:東京都葛飾区高砂町の崇福寺。
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