鍋島直正
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鍋島 直正(なべしま なおまさ、文化11年12月7日(1815年1月16日) - 明治4年1月18日(1871年3月8日))は、江戸時代末期の、第10代肥前国佐賀藩主。鍋島斉直の17男。母は池田治道の娘。正室は徳川家斉の18女・盛姫、継室は徳川斉匡の19女・筆姫。子に道大、直虎、直柔、娘(松平直侯室)。号は閑叟(かんそう)。
[編集] 経歴
天保元年、父鍋島斉直の跡を受けて17歳で第10代藩主に襲封。当時の佐賀藩は、長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主の奢侈・贅沢もあって、その財政は破綻寸前の状況にあった。直正自身も初入部のため、江戸藩邸を佐賀に向けて出発せんとするやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、直正の行列は進行を停止せざる得ない屈辱的な経験をしている。
直正は、襲封するとともに藩政改革に乗り出したが、当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔をうかがわねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令がせいぜいであった。しかし天保6年(1835年)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させる佐賀城再建を斉直の干渉を押し切って実行した。
これを皮切りに、役人を五分の一に削減するなどで出費を減らし、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料支払い免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、政務の中枢に出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に登用した。さらに斉直がかつて削減した長崎警備の強化を掲げ、西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気機関・蒸気船までも完成させることにつながっている。
嘉永6年(1853年)、直正が数え年39才の時、マシュー・ペリーが来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、直正は武力外交に対し、強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、老中より信頼を得た。 一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を知っており、イギリスの親善外交に対し、開国論を主張する。
質素倹約と経営手腕を商人たちに「そろばん大名」と呼ばれ、『葉隠』に表される保守的な風土にいながら、当時は医者の学問と侮蔑されていた蘭学を「蘭癖大名」と呼ばれるまでに熱心に学び、佐賀藩を東洋一の軍事力を持つに至らせたが、激動の中央政界では、幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、政治力・軍事力ともに行使しなかったために、「肥前の妖怪」と警戒され、小御所会議などでの中央での発言力を持てなかった。明治4年という明治維新が始まってから間もなくに世を去ったことも、肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなった一因でもある。
鳥羽伏見の戦いで薩長(薩摩藩・長州藩)側が勝利に終わって以降は佐賀藩は新政府軍に加わり、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀鍋島藩の活躍は大きかった。
明治政府が近代化を推し進める上で、直正が育てた人材の活躍は大きく、直正自身も議定に就任し、大納言の位を与えられる。廃藩置県に知藩事(大政奉還後の藩主)として最初に賛同したほか、明治2年(1869年)6月6日、蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、7月13日には初代開拓使長官に就任したが、蝦夷地へ赴任することなく、8月16日大納言に転任した。
旧幕府軍との戦いの褒章を割って開拓費用に当て、諸藩に先んじて佐賀藩の民を移住させたほか、満州開発、オーストラリア鉱山開発などを提言するなど、以後50年先に待ち受ける、対外、食料、資源などの問題を見通していた。
明治4年(1871年)1月18日、藩邸にて病没。享年58。
[編集] 関連項目
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