閻錫山
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閻錫山(えん しゃくざん、Yan Xi shan 1883年10月8日 - 1960年7月22日)は、戦前の中国で山西省を拠点に勢力を誇った軍閥の首領。
日本に留学した知日派だった。字は伯川、号は龍池。
[編集] 略歴
1883年(清朝光緒9年、明治16年)に山西省五台県河邊村で「牛農牛商」の家に生まれた。19歳のとき、太原にある国立山西武備学堂に入学、1904年(光緒30年、明治37年)、21歳のときに日本に留学、東京振武学校(士官学校の予備校)を経て陸軍士官学校に学ぶ。留学した翌年、孫文率いる中国革命同盟会に加入した。弘前歩兵第31連隊勤務などを経て、1909年(宣統元年、明治42年)に帰国、山西陸軍第二標の教官、標統に着任する。そして1911年(宣統3年、明治44年)の辛亥革命の際に挙兵し、国民政府成立後、袁世凱の命により山西都督に就任した。
都督に就任した閻錫山は山西省の軍政両権を握り、民国初年から中央政府と不即不離の関係を維持。「保境安民」(山西モンロー主義)を唱えて内治に力を入れる。豊富な資源を利用して早くから工業化に力を入れ、山西省を優秀省に育てた。鉄道建設、教育機関の充実などの功績は高く、現在でも山西庶民の間で評価されている。
1927年(民国16年、昭和2年)に国民革命軍北方総軍司令に就任して国民政府の北伐に協力。国府中央の党中央政治会議委員、政府軍事委員会常務委員を任ぜられ、翌1928年(民国17年、昭和3年)には党中央執行委員に当選した。第三集団軍総司令、太原分会主席、平津衛戌総司令、陸海空軍副総司令などの要職を歴任し、勢力を山西省から綏遠・察哈爾、河北、北津へと広げた。しかしその後、モンロー主義を放棄して二度の反蒋戦争に参加したが敗れ(中原大戦)、大連に逃れた。ここで日本の庇護を受けたとされる。のちに国民政府に帰参し、1932年(民国21年、昭和7年)に太原綏遠公署主任を任ぜられて復権した。
1936年(民国25年、昭和11年)の綏遠事件では、晋綏軍が日本の支援を受けた内蒙軍を撃退。抗日意識が高まるなか、西の陝西省から侵攻してきた中共と妥協し(犠牲救国同盟会の成立)、反共から「連共抗日」路線への転換を余儀なくされた。
翌1937年(民国26年、昭和12年)、日華事変による日本軍の侵攻で大打撃を受けた。戦争中は第二戦区司令官に就任するが、日本軍、国府中央軍、中共軍の進出で支配の基盤が動揺した。1939年(民国28年、昭和14年)には、勢力を増大させた中共との間で衝突(晋西事件)も起きた。1941年(民国30年、昭和16年)9月には日本の「対伯工作」を利用して現地日本軍と停戦協定を締結し、兵力を温存した。
戦後は国共内戦のなか残留日本人義勇軍(暫編独立第十総隊)を使って中共軍と戦った。しかし、1949年(昭和24年)3月、中共軍によって太原が包囲されると閻錫山は飛行機で太原を脱出、南京、広州を経て台湾に逃れた。翌1950年(昭和25年)まで中華民国行政院長兼国防部長を勤めた。辞任後は総統府資政、国民党中央評議員に就任して、反共著述に専念した。
1960年(昭和35年)5月に台北北部陽明山にある居宅で死去。享年74。
[編集] 関連
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