張学良
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張学良 | |
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張学良 |
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プロフィール | |
出生 | 1901年6月3日 |
死去 | 2001年10月15日 |
出身地 | 中国 遼寧省 |
職業 | 軍人、政治家 |
各種表記 | |
簡体字 | 张学良 |
繁体字 | 張學良 |
ピン音 | Zhāng Xuéliáng |
和名表記 | ちょうがくりょう |
発音転記 | |
ラテン字 | Chang Hsüeh-liang |
英語名 | Peter Hsueh Liang Chang |
張 学良(ちょう がくりょう)は中国の軍人・政治家。字は漢卿。張作霖の長男として遼寧省に生まれた。
目次 |
[編集] 人物
[編集] 青年時代
1901年張学良は当時満州地方の馬賊だった張作霖の長男としてうまれた。母親のことはよくわからないが、張学良が10才のときに亡くなったようである。張作霖に可愛がられ、周りの者からもちやほやされ、お坊ちゃんとして育つ。大勢の家庭教師がつき高い教養を身につけた。
1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。若いころから記憶力がよく、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取ったので父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子様)で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングできないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。しかし私生活は不品行で、アヘンや酒色にふけるなど、遊蕩の生活を送っていたという。また、昭和天皇と同年生まれで、20歳の時来日したが、当時皇太子であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後述のNHKの取材で述べている。
[編集] 武官時代
1920年東三省講武学堂を卒業し、軍人としての道を歩み始める。満州の奉天軍閥、張作霖の長子として父と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると弱冠19才の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年の第一次奉直戦争、1924年の第二次奉直戦争でも活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。やがて郭松齢が処刑されると彼の軍も張学良直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。
[編集] 奉天軍閥
関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928年6月4日)により、張作霖が死亡すると張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、父の領土満州を継承した。当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事、政治の不干渉を認めさせ所領の独立を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して説得したが、翻意させることはできなかった。こうして日本から反感をかってしまったが決定的な対立には至らぬように工作し日本を軟化させた。1929年1月、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものにした。
張学良は富国強兵策をとり軍事、金融、教育などの近代化をすすめた。彼は次第に自信を深め1929年8月にはソビエト連邦が持っていた東中国鉄道を接収したことをきっかけに、武力衝突を起こして大敗したが、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸ばし河北省を接収し、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。
[編集] 満州事変
1931年にはいると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍の反発をかっていた。張学良はこれらの面倒な問題に関わることを嫌い、愛人と北京での堕落した生活を望んだ。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときもいつもの軍事演習だと決めつけ何の対策も取らなかったという。満州事変が勃発したとき彼は北京にいたが日本軍侵攻の報告を受けると満州からの撤収を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したと当人はNHKの取材で述べている。単に勝てないと判断したからという説もある。また、アヘン中毒を理由に彼の指揮能力を疑う論者もある。日本と積極的に戦わず退いたことは国民政府の方針通りであった(この時期蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった)。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕がなかったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかったためである。ところが、日本は満州全域を占領したので、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。そのため、一時期職を辞してアヘン中毒の治療に専念し、さらに欧州を外遊していた。イタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。
[編集] 西安事件
1934年張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に反日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。このときすでに対蒋介石クーデターの構想などが練られていたといわれる。1936年、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件をおこして蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。
[編集] 軟禁
翌1937年、その代償として逮捕され、軍法会議により懲役10年の刑を受けた。1938年特赦を受けたが、実際は軟禁の身であった。日本が敗北すると、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れたが、張学良も台湾に移され、50年以上も軟禁され続けた。この間、1955年にキリスト教に改宗した。蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになり、1990年にはNHKの取材を受け、大きな反響を呼んだ。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で、中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかったと主張している。
その後1991年に釈放され、アメリカ・ハワイに隠棲。そのまま生涯を終えた。
[編集] 評価
国共合作を成立させたことから、中華人民共和国では「千古の功臣」、「民族の英雄」と呼ばれ、非常に高く評価されている。逆に台湾では正反対の「千古の罪人」として扱われ、特に黄文雄ら親日派は激しく批判している。何より最終的に共産党に中国大陸を追われたことが、台湾での張学良評価を厳しくしている。ただし、釈放など時間の経過にともない、再評価の動きも起きている。日本にとっては、日中戦争敗戦に重要な影響を及ぼした人物であるだけに、アジア太平洋戦争肯定論者からは「匪賊」「馬賊」を強調され、ことさら批判される傾向にある。満州事変や日中戦争に批判的な立場からは比較的擁護される。しかし、台湾での軟禁中、一時は生死さえ定かではない扱いを受けていたため、日本では重要度の割には論じられてはいない存在といえよう。自らはNHKの取材の最後に「『善人に長寿なし、禍害一千年』私たちはみんな禍害なのです」と述べている。
[編集] 参考文献
- 臼井勝美:NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』(1991/8 角川書店 ISBN 4048210416、1995/5 角川文庫 ISBN 4041954029、いずれも絶版)
- 松本一男:『張学良と中国・西安事変立役者の運命』(サイマル出版会)