陳独秀
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陳独秀(ちんどくしゅう、1879年10月9日 - 1942年5月27日)は、中国の作家・左翼運動家。字は仲甫、号は実庵。安徽省懐寧県(現在の安慶市)出身。
1879年、安徽省懐寧県(現在の安慶市)で生まれた。1901年より日本に留学すると、留学生の間で高まっていた民族主義的思潮に影響される。帰国すると故郷で安徽愛国会という団体を結成し、『安徽俗話報』という雑誌を刊行し、岳王会という秘密結社的な組織を設立して革命運動に関わる。1911年の辛亥革命の後の中華民国の成立後は安徽省政の要職に就くが、大総統の袁世凱が強権的な姿勢を強めていくとともに職を辞して日本に亡命する。
1915年に帰国すると、新文化運動を提唱して『青年雑誌』(のちの『新青年』)を創刊し、その編集長を務めた。『新青年』において陳独秀は、伝統中国的な文化や社会体制が中国の近代化を妨げる元凶であるとして徹底的に否定し、中国を滅亡させないためには、もはや現代社会にそぐわない儒教を廃絶して西洋文化を全面的に取り入れるべきだと主張した。この過激な主張は当時の中国の知識人の広い共感を得て一躍有名なジャーナリストとなり、若き日の毛沢東も「思想界の明星」と絶賛していた。『新青年』は胡適や魯迅など、近代中国史上に著名な人物を多く生み出した。1917年より北京大学の教授にも就任する。
1919年に一次大戦のパリ講和会議における西洋諸国の大国主義的な振る舞いに失望し、西洋主義から離れてマルクス主義に接近していく。1921年、上海で中国共産党が結成されると、初代総書記に選出された。1924年より中国国民党との第一次国共合作に踏み切るが、1927年の上海クーデター発生によって「機会主義」という批判を受けて失脚へと追い込まる。その後トロツキズムに傾倒して共産党を批判するようになり、1929年に除名された。1932年には国民党に逮捕され、5年間の獄中生活を送った。1942年、四川省の江津で死去。
[編集] 参考
- 『獨秀文存』1922年
- 横山宏章『陳独秀』(朝日選書 1981年)
- Benton, Gregor(編集)『Chen Duxiu's last articles and letters, 1937-1942』University of Hawaii Press(1992年) ISBN 0824821122
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