韓遂
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韓遂(かんすい、?-215年)は、後漢末期の武将。字は文約。
[編集] 経歴
名は韓約と言われることもある。霊帝の時代、涼州で羌族に押し立てられ、辺章・北宮玉・李文侯らと手を結んで後漢に対して反乱を起こした。これは董卓によって鎮圧されたが、その後も羌族の支持を受け、涼州に割拠した。辺章・北宮玉を殺すと、王国を馬騰と共に擁立し、馬騰と義兄弟の契りを結んだ。三国志演義では馬騰配下の一人のように描かれているが、実際は涼州に勢力を持つ群雄の一人である。ただ、韓遂は常に他人を表に立て、自らは裏で実権を握るようにしたという。初めは辺章、次に王国を表に立て、さらに王国を廃すると(おそらく殺して)、馬騰を立てた。
192年に降伏するが、同年の夏4月に董卓が呂布と王允らに殺され、さらに李傕がその王允を殺し、呂布を追い出して自分の政権を成立させると、劉焉と共同でこれを攻めたが戦線が膠着し撤退。涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに一族を殺し合う有様となった。官渡の戦いを控えた曹操・鍾繇の仲介により講和し、その後も袁紹戦で曹操に協力した。馬騰が曹操の強い要請で朝廷に出仕し、鄴に移住すると、その子の馬超を表に立てた。
曹操が漢中の張魯征討に出兵すると、韓遂らは張魯攻撃にかこつけ通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・楊秋ら西涼の武将とこれに呼応して曹操に対して反逆した。しかし曹操の離間策にはまって馬超と対立し、馬超と袂を分かった上で涼州に引き揚げた。この時、韓遂の息子と孫は曹操に皆殺しにされている。
後に曹操の武将・夏侯淵が涼州平定のために攻めて来ると、これと懸命に戦ったが敗れ、金城に逃走した。韓遂は蜀に逃げようかと配下の成公英に漏らしたが、成公英は抗戦を主張し、韓遂もこれに従った。しかしまもなく麹演・蒋石らによって殺された。または、病死したところを首を斬られ、曹操への手みやげにされたともいわれている。70余歳だったと伝えられる。
[編集] 三国志演義では
三国志演義では、馬超の忠実な同盟者として配下の旗本八旗(楊秋、侯選、張横、程銀、成宜、李堪、馬玩、梁興)を率いて曹操と戦った。しかし、曹操配下の賈詡(かく)の離間の計にはまり怒った馬超によって左腕を落とされ、その後曹操に降伏し関内侯に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まった。
また、年齢は史書と異なり172年生まれとなっている。これは、韓遂の父が曹操と同年の孝廉に推挙されたという記事から、韓遂を曹操の息子に近い世代に設定したものであろう。裴松之が魏書・武帝紀の注に引く『魏武故事』には曹操の布告として、同年に推挙を受けた中でも五十歳になっていた者がいたと述べており、その人物が韓遂の父親であった可能性もある。