張魯
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張魯( ちょうろ、? - 216年(建安21年)? )は後漢末期から三国時代にかけての五斗米道(後の正一教)の指導者。字は公祺。豫州沛国豊県の人。張陵の孫、張衡の子、張衛の兄。子は張富・張盛・他三名・女子一名がいる。
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[編集] 略要・人物
[編集] 独立~漢中支配
張魯は父の張衡が亡くなると、その後を継いで、祖父の張陵が創始した蜀(現在の四川省)の道教教団の教祖となった。しかし張衡死後の蜀では、張脩の鬼道教団が活発になっていった。張魯は益州牧の劉焉に、張脩と共に漢中太守の蘇固を攻めるよう命じられると、張脩を殺してその軍勢を奪い取り、漢中で独立を果たした。劉焉が亡くなると子の劉璋が後を継いだが、張魯は劉璋には従わなかったため、母と弟ら一族は劉璋によって殺されてしまった。
張魯が治めていた漢中では街道が各所に敷かれ、休憩所や食堂も造られた。また、信者から得ていた税や寄進などによる五斗の米も、自身の快楽に使うことは殆ど無く、扶助関係に費やしていたと言われている。張魯は漢中で、当時としては珍しいほどの善政を敷いていたのである。
こうして張魯は、後漢の実権を握った李傕や曹操でさえも、簡単には手出しできないほどの勢力を築いた。朝廷は張魯を鎮民中郎将・漢寧太守(張魯は漢中を漢寧と呼んでいたらしい)に任じ、その支配を追認した。住民から玉印を献上されると、部下達は張魯に漢寧王を名乗るよう進言したが、閻圃が「王を名乗れば災厄を受ける」と諫めたため、王号は名乗らなかった。
[編集] 曹操への降伏まで
211年(建安16年)、曹操配下の鍾繇が張魯を征伐しようとしたが、韓遂・馬超らが自分達を倒すつもりではないかと疑心暗鬼になり、これに立ちはだかった。曹操は両者を破ったが、張魯にまで攻撃の手は及ばなかった。この後、馬超が張魯に帰順すると、張魯は馬超に娘を娶らせようとしたが、ある近侍が主に対して「身内を愛せない人物が増して他人を愛することなどできましょうか」と諫言したために取り止めた。また、馬超は張魯に兵を借りて何度も失地回復を試みるも、果たせなかった。そのため両者の関係は悪化し、劉備が劉璋の本拠である成都を包囲すると、馬超は自分の軍勢を引き連れて劉備の元に出奔した。後に張魯は曹操に降伏し、曹操の命によって人質に取っていた馬超の長子の馬秋を間もなく処刑している(馬超の少子の馬承は父と行動を共にしたと思われる)。
215年(建安20年)に、ついに曹操は大軍を率いて漢中に攻め込んで来た。張魯は最初から勝利の可能性が無いことを知っていたため、降伏しようと考えていたが、弟の張衛がこれに反対して出陣した。しかし張衛は曹操軍に討ち取られてしまう。張魯はいよいよ降伏しようとしたが、閻圃の「追い詰められて降伏しては軽く見られる」との進言を受け入れ、巴中に逃走した。この際、張魯は財宝の入った蔵を「国家のものだから」と焼き払わずに封印した。そのことに感心した曹操は使者を送って説得し、張魯の降伏を許して丁重に迎え入れた。そして張魯を鎮南将軍に任じて、張富・張盛を初めとする張魯の五人の息子もそれぞれ侯に取り立てた。また、張魯の娘は曹操の第9子である曹宇に嫁いだ。
『真誥』「第四巻」によると、張魯は翌216年(建安21年)に鄴で逝去し、鄴城の東方に手厚く埋葬されたという。曹操から原侯としての諡号を贈られたという。張魯の死後もその長子の張富とその子孫らによって、二千年に亘って五斗米道は発展し、正一教となって現在まで続いている。
[編集] 三国志演義では
『演義』での張魯は、益州を奪い取ろうとしたり漢寧王の位を望んだりと、強欲な教祖として描かれている。馬超が劉璋救援の名目で出陣した時には、張魯は腹心の楊柏(『正史』では楊白)を目付として監察させた。馬超は劉備に帰順した時に、楊柏を斬り捨てている。